仕事に命を賭けて オリンピック特別編 Vol.51
自衛隊体育学校
特別体育課程学生 1等陸尉
小原 日登美
文字通り、仕事に自分の命を賭けることもある人たちがいる。一般の人にはなかなか知られることのない彼らの仕事内容や日々の研鑽・努力にスポットを当て、仕事への情熱を探るシリーズ。
ロンドンオリンピックで日本選手団は過去最高のメダル数を獲得。なかでもレスリングは4名が金メダルを獲得したが、その一人である女子48㎏級金メダリストの小原日登美さんは、かつてこの紙面に登場したあの坂本2尉。現在は結婚し小原1尉として、自衛隊体育学校に所属する。
(取材/種藤 潤)
みんなで獲得した念願の金メダル
かつてこの紙面で登場いただいた際は、自衛隊体育学校でオリンピック出場を目指す妹の坂本真喜子さんを指導する立場だった。それから4年。彼女は指導者ではなく現役選手としてオリンピックの舞台に立っていた。
「当日は驚くほど落ち着いていました。会場が小さく感じましたね」
女子レスリングがオリンピック種目に採用されて12年。念願の舞台だったオリンピックにも関わらず、彼女はそのプレッシャーを感じることなく、表彰台の頂点に立った。
「どんな結果であれ、このオリンピックで引退することは決めていましたから、試合というよりも人生最後のスパーリングをしている感覚でした。だから不思議と緊張しなかったのかもしれません」
そしてこの結果は、自分一人ではなし得なかったと、迷うことなく言い切る。
「応援してくれた日本の皆様、そして夫をはじめとする家族、そして競技者として全面的にバックアップしてくれた自衛隊体育学校の存在があったからこそ、私はここまで来れました。このメダルは、みんなで勝ち取ったメダルなんです」
自衛隊体育学校があったから今の自分がある
みんなで勝ち取った金メダル―その「みんな」のなかでも、自衛隊体育学校の存在は改めて大きかったと、小原1尉は振り返る。
「自衛隊体育学校がなければ、私はレスリングを続けていなかったと思います」
自衛隊体育学校との出会いは、中京女子大学(当時)大学院在籍中。その時の彼女はアテネオリンピック出場の夢破れ、一線から退いていた。
「今の夫の誘いで体育学校の練習に参加したら、素晴らしい練習環境が整っていることに驚きました。何より男子のレベルの高さを目の当たりにして、私もここで練習すればさらに上を目指せると感じ、入隊を決めました」
1952年設立された「警察予備隊普通科学校体育科」を前身とし、1961年に陸・海・空3自衛隊の共同機関として「部隊における体育指導者の育成」「体育に関する研究・調査」を目的に朝霞駐屯地に自衛隊体育学校は誕生した。
彼女は2005年に「オリンピックなど国際級選手の育成」を目的とした第2教育課に入隊。そこでさらなる実力をつけ、世界選手権4連覇を達成。だが彼女は再び現役を退き、妹のオリンピック出場を支えるべく、指導者の道を選ぶ。それが以前取材した時であった。
「結果的に、妹はオリンピック出場を果たせず、結婚を機に引退しました。そのとき彼女から48㎏級でオリンピックに出場してほしいと想いを託されました」
他人に妹の代わりを譲ってなるものか―彼女は再び選手に返り咲く決意をする。
自衛隊体育学校は心身ともに最高の環境
とはいえ、復帰の道は容易ではなかった。選手としての筋力や「勘」を戻すのはもちろん、51㎏級がベストだった体重を48㎏へ落とさなければならなかった。そうした困難な状況を克服できたのも、自衛隊体育学校の存在があったからこそだと、小原1尉は断言する。
「減量は、体重を落としながらも筋力を維持しなければなりません。スタッフが生活全体を考えながら万全のサポートをしてくれたから、無理なく身体を作ることができました。それに技術面ももちろんですが、スタッフ全員でオリンピックを目指し、金メダルをとろうという連帯感が心強かったですね。個人競技でしたが、私はみんなで戦っている気持ちでした」
金メダルが獲得できた瞬間も、このチームで結果を残せたという喜びと、その責任を果たせた達成感を何より感じたという。
今後は選手をサポートする側に回り、自分の世界での経験を伝えていきたいと言う。
「私は引退後に指導者として自衛隊に残りますが、部隊への勤務も選択肢としてあります。そうした引退後の環境も含め、自衛隊体育学校はとても恵まれたスポーツ環境だと思います」
過去最大のメダル数獲得で盛り上がりを見せる東京へのオリンピック誘致だが、その表彰台に彼女が育てた選手が立つことも、十分考えられる。
ちなみに本格的に指導者になる前に、できれば新しい家族を作りたいと、照れくさそうに付け加えた。