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特集:東日本大震災から3年2014年03月20日号
今年の3月11日で、東日本大震災から3年が経った。東京はかつての生活を取り戻しつつあるが、被害の中心となった被災地は今、どういう状況なのだろうか。その現状を確かめるべく、岩手、宮城、福島3県の被災地に向かった。そこで我々が目にしたのは、復興がまだ進んでいない現実と、終わることのない被災者たちの苦しみであった。
(取材/種藤潤 協力/一般社団法人社会的包摂サポートセンター)
生活再建は進まず人々は今も苦しんでいる
「3年経ちましたが、被災地の生活再建はこれからの段階です」
そう話すのは、一般社団法人社会的包摂サポートセンター・統括コーディネーター兼中央センター盛岡責任者の山屋理恵さん。同センターでは「よりそいホットライン」という、仕事や家庭、お金、病気、暴力など、生活に関するあらゆる悩みについて24時間無料かつ匿名で相談できる電話窓口を設置している。特に岩手、宮城、福島の被災3県には特設ダイヤルを設け、被災地の「心の叫び」にも耳を傾け続けてきた。そこから見えてくるのは、依然として復興が進まない現実と、そのことで人々が抱えるストレスが増大している現状だと、山屋さんは語る。
「相談自体は全国と比べても同じような内容です。ただ復興が進まず、ストレスを抱える環境が長期化することで、もともと生活に潜んでいた問題が噴出しているのです」
実際に現地に赴いてみて、山屋さんの言葉が現実のものであることが分かった。3年を経てもなお、被災地の人々は震災の影響に苦しみ、日々闘っているのだ。
仮設住宅での生活が長期化
新たな格差も生まれる
岩手県下閉井郡山田町。宮古市、釜石市に挟まれたこの湾岸の町もまた、津波による甚大な被害を受けていた。今では被害にあった一帯は更地となり、一見復興は順調に進んでいるように見えるが、ことはそれほど単純ではなかった。
訪れた更地のなかには、かつて住宅が密集していた地域があった。しかし一度更地になった場所には、商業施設などが建つことは許されても、人が暮らすことはできないという。二度と人々の生活が戻らない空間には、言いようのない虚無感が漂っていた。
津波により仮設住宅へ移住した人々のなかには、3年経った今もそこで暮らし続ける人が多いという。空間は狭くプライバシーのない仮設暮らしではストレスが蓄積し、それがDVなどの形で顕在化しているそうだ。
宮城県石巻市の仮設住宅でも、移住の進まない状況は同じだった。訪れた被災3県最大級の規模を誇る「開成仮設住宅」をはじめ、今もなお多くの人が仮設での生活を余儀なくされている。そのストレスからここでも家庭内のトラブルが目立っているという。
とはいえ一部の住民は仮設住宅から移住し、生活再建をはじめている。しかし、そうした人々と仮設住宅に残る人の間には新たな『格差』が生まれ、それが被災者のなかの不満要素ともなっているのだ。
「仮設に残るのは経済的に厳しい社会的弱者。仮設のなかでも環境のいいところ、悪いところといった『格差』が生まれ、被災者同士の不満となってくすぶっているようです」(開成地区で被災者サポートを行っている女性)
福島は原発問題により
より出口が見えない状況
福島は原発問題があるため、事態はより複雑化し、出口の見えない状況だった。福島市南方の「松川第一仮設住宅」には、「居住制限区域」に指定(2014年4月現在)されている飯館村の高齢者が居住。住民は生活再建に関してなかばあきらめているようだった。
「原発問題はいつ解決するか分からないし、仮に戻れても放置した村は荒れ放題だから元の暮らしをすることは不可能。ここで暮らすしか選択肢がない」(松川第一仮設住宅に暮らす女性)
実際、「居住制限区域」のひとつの富岡町を訪れたが、地震で崩れた建物はそのままで、木や草が無造作に生い茂っていた。大げさではなく「廃墟」だった。
被災地は、3年を経て問題がより具現化し、これからが復興の本番という状況であった。だからこそ被災地のサポートが必要だと、山屋さんは決意を新たにしていた。
仮設住宅に暮らす一人がつぶやいた、心に残る言葉がある。
「忘れられることが一番怖い。私たちは今も震災と闘っている。その現状をもっと知ってほしい」
被災地から離れた私たち都民ができることは、震災を風化させないこと、そして現実を正確に知ること。それが私たちが今できる復興支援であり、その第一歩としてまず被災地を訪れることをおすすめしたい。3年目の被災地を知ることは、いつ大震災が起こってもおかしくない東京に暮らす我々にとって、かけがえのない教訓となるはずだ。
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