画家になろうか、作家になろうか、
悩んだ結果は……?
―画家、作家、ゴッホ研究家と3つの肩書きをお持ちですが、これが本業というのはあるのですか。
吉屋 絵を描いている時は絵が本業、文章を書いてる時は文章が本業なんですね。絵を描いていると文章が頭に湧いてくる、文章を書いていると今度は画像や画面が鮮やかに浮かんでくる、という現象がよく起こります。だから双方から刺激を受けて補完しながらひらめくっていうのかな。そうやって私の絵も文も成立している気がしていますし、そうであってほしいとも思っています。
ゴッホについてですが、まさに私が絵を描き始めるきっかけとなった画家がゴッホなんですね。少学4年生のころ、近くの男子高校に井上先生という叔母で作家の吉屋信子にちょっと似たショートヘアーの40代くらいの女流画家が、子供のための絵画教室を開いていたんです。その頃、小学校の先生をしていた2番目の姉が、絵が好きだった私をその井上先生の教室に連れて行ってくれたのですが、井上先生が私の絵を見てすごく褒めてくれて、そこに通うことになりました。
そこである時、井上先生が外国製の高価なゴッホの画集をもってきて見せてくれたんです。タイトルのVan Goghの読み方もわかりませんでしたが、ゴッホというオランダ人の画家であることを教えてくれました。今でもはっきり覚えていますが、《ひまわり》とか《アルルの跳ね橋》を見てすごく感激して、その時「よし、私は、ゴッホになろう」と。後になって思い出すと、まさに心臓をわしづかみにされたっていうのは、あの時の感動のことかもしれません。
―始まりはゴッホだったのですね。文章を書くようになったのは?
吉屋 中学校に入ったら、今度は国語の先生に作文をものすごく褒められて「やっぱり吉屋信子さんの血だね」って言ってくれて。吉屋信子は父の3歳下の妹で、まだテレビがない時代、流行作家の信子は女優並みの人気を博した有名作家だったわけです。
中学の先生に褒められてからの私はと言うと、画家になろうと思ってたけれど、文章っていうのも面白い。どうしよう、どっちにしようと思い迷っているうちに高校を卒業しちゃって、文化学院に入学したんです。
ところが人生の偶然ってあるんですね。そこで1年半くらい美術の勉強をしていた時に、東京のオランダ大使のデ・フリースさんが、私がオランダに留学したがっているのを知って、「オランダに行きたいなら、ハーグ王立アカデミーを紹介してあげましょうか?」と言ってくれました。デ・フリース大使が言う通り、オランダでは入学試験というのはなくて、代わりに学長のインタビューを受けて適正をチェックされます。60年前のことですが、なぜ絵を勉強したいか、なぜこの大学に入りたいか、といったようなことをまるでよもやま話をするような雰囲気で、学長自らがインタビューするんですね。私は一通りの在学や成績証明書とか作品の写真を持って行ったのですが、書類にはあまり興味を示さず、私の作品と話にだけ興味を示したみたいです。そうしてすごく気軽に「すぐに入学してもいいですよ」と言われて……。手続きの簡単さにはただただびっくりでした。

2時間に及んだ宮殿でのユリアナ女王のデッサンと記念撮影の様子

2001年、アムステルダムの芸術家協会正会員に選出され記念の展覧会を開催。毎日新聞の取材を受けて(撮影:森忠彦)
ユリアナ女王戴冠25周年特別肖像画展に
日本人としてただ一人招待される。
―アカデミーはいかがでしたか。
吉屋 授業はオランダ語なので全く理解できません。隣に座っている男子学生が親切に英語に通訳してくれるのですが、それがうるさいといつも注意されていました。2年生には編入してもらえたのですが、オランダ語はわからないし、美術史とか色彩理論とか日本語でも興味がないものを勉強する気にはならない。担当教授との折り合いも悪く、2学期の履修登録はしませんでした。
そしたら教授が「あなたに合っているのはフリー・アカデミーだ」と、私立のアカデミーを勧めてくれました。そこでも学長が出てきてインタビューしてくれて、「今日からでもいいよ」と。そこは本当に自由で、絵でもリトグラフでも写真でもどんな科でも自由に選択できて、自由に制作できるシステムだったんです。それにオランダ語は誰も喋っていなくて、飛び交っているのは英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語……コスモポリタンになった錯覚を起こさせるようなところでした。
―当時のオランダのユリアナ女王の肖像画を描かれたのはその頃ですか。
吉屋 フリー・アカデミーで7年経って、先生から「君もそろそろ自立しなさい」と言われた1973年が、ユリアナ女王戴冠25周年の記念の年でした。国中でいろんなイベントが企画されていたのですが、その一つが25人の画家を選んで女王の肖像画を描かせようというもので、その選考委員の中に私が師事していた恩師が2人いて、何のキャリアもない若僧の私を、その25人の一人に選んでくれました。
「芸術家は体制に与してはいけない、そのトップに立つ女王を描くのは嫌だ」と断ると、「君は真面目すぎる」とみんなゲラゲラ笑うんです。「僕らは宮殿にお茶のみに行くんだよ。女王と話したりすれば外国人の君にとってはすごく面白い貴重な体験じゃないか」と。それで、物見遊山で行くことにしました。
ユリアナ女王は、ただ一人の女性で外国人の私を気に入ったのか、私の腕をとって、まるで古い友人に接するみたいに宮殿内を案内してくれました。それに、オランダ語のおぼつかない私のために全部英語で話すのです。なんて民主的な王室だろうと心底感心し、感激しましたね。
―どんな絵を描かれたのですか。
吉屋 みんなは油絵を描いたので、私は鉛筆のデッサンとコラージュを組み合わせたグラフィック的な昨品を3点描きました。20代の私の目で見た50代半ばのオランダ人の彼女は、悪いですけどシワシワのお年寄りに見えたんです。肖像画展ですからね、正直に描こうと思って、シワを克明に描きました。非常に似ている、そっくりなんですよ。
後日開催された展覧会にやってきたユリアナ女王は私の作品をしげしげとみて、「私の顔ってこんなにシワがあるのかしら?」と絶句されたそうです。あんなに親切に案内してあげたのだから、きっと美人に描いてくれたたに違いないと、私に期待していたのかもしれませんね。私は私でてっきり女王陛下のお買い上げになると期待していたのですが、2枚はどなたかが買ってくださいましたが、そのそっくりなグラフィック作品は女王陛下のお買い上げにはなりませんでした。

今年1月に筑摩書房から出版された『ゴッホ 麦畑の秘密』

絵画展のカタログと主な著書
刺激をもらえてリラックスできる
ミニサロンを作りたい。
―60年オランダで活動されていて、どうして日本に戻ることにしたのですか。
吉屋 オランダで出会って結婚した日本人の夫が、80歳近くになってオランダでは治すのが難しい難病に罹ったからです。
オランダって、人の命の大切さとか、生死の問題、安楽死とか麻薬とか様々な問題を、ものすごく熟慮と試行錯誤を重ねた末に公認されるのが普通で、考え方も実行力も革新的です。でもその前にはこうした避けられない問題を徹底的に議論して、最良と思われる方策を国民全体で納得するまで話し合うという精神的、文化的土壌があるわけですね。
生死の問題に関してもドライな国なので、例えば80歳を過ぎた難病の老人の場合、最低限の治療しかしてくれないんですよ。先端医療に必要な医療技術と時間と経費はまだ先のある若い世代のために使いたいという、暗黙のコンセンサスがオランダ社会にはあるのでしょう。ある意味で行き過ぎた合理主義というか……。
夫は自分が好きで来た国だから、オランダで死んでもいいって言うんですけど、治るかもしれないのに諦める必要はないでしょう。日本の病院に勤務している親戚に相談したら、「すぐに帰国して自分の病院に連れて来なさい」と言われ、それで2023年に帰国してそこに入院したんです。日本は老人だからといって見捨てない、切り捨てない国なんですね。お陰様で、夫は瀕死の状態から抜け出して、車の運転ができるまでになっただけでも、帰ってきてよかったと思っています。
―帰国して2年経って、少し落ち着いたと思いますが、やりたいことはありますか。
吉屋 2階の部屋を目下改装中でミニサロンにしようと思っているんです。私の周りにいる才能と専門知識があり、経験豊かな人たちの話を、少人数でもいいから集まって聞いてもらいたいなあと。それに、私自身も新しい学問や知識をもっともっと吸収したいし、意見交換もできるし、いつも前向きに生きていたいんです。みんながリラックスして、それでいてお互いに刺激を与えたりもらったりできるような、建設的で素敵な関係と空間を作りたいと思っています。高齢者も若い人たちも、悩みがある人も、みんなが楽しさや苦しさを共有、共感、吐露できて、お互いに考える、共生できる空間、そんな空間ができれば素敵ですよね?
今年2冊目のゴッホの伝記紀行『ゴッホ 麦畑の秘密』を出版しましたが、ゴッホは絵だけでなくたくさんの書簡を残しましたね。あの中には苦しみながらも決して希望を捨てず、人々の役に立つにはどうしたら良いかと悩み抜いた一人の人間の姿が凝縮されています。人間の存在の意義というのは人の役に立つこと、そのためにはどうしたらいいのか真剣に考えることだということが、ゴッホを知れば知るほど伝わってくる気がします。
やりたいことは尽きませんが、自分が何のために生まれてきたのか、何をしたいのか。わかっているようで、いくつになってもちっともわかっていないこのことを、死ぬまで悩むことが生きることなのかなあ……、これがゴッホから教わったことかなあ……なんて考えるこの頃です。
毎日いつも「今日が人生のスタート」と、思えるように生きてみたいな。
吉屋 敬|よしや・けい 1945年、横浜市生まれ。1965年、オランダに渡り、ハーグ王立アカデミー、フリー・アカデミーで油彩、リトグラフ等を学ぶ。1973年、ユリアナ女王戴冠25周年特別肖像画展に招待され、25名の画家の一人として肖像画を描く。オランダ各地、ベルギー、ニューヨーク、日本各地で作品を発表。2001年、日本人として初めてオランダ芸術家協会正会員に推薦される。著作に『楡の木の下で=オランダで想うこと』『母の秘蔵の絵』『みずうみの家』『ネーデルラント絵画を読む』『青空の憂鬱=ゴッホの全足跡を辿る旅』『ゴッホ 麦畑の秘密』など