2008年6月20日号
幸いなる運命に翻弄され
書家として開花
今も世界に羽ばたき続ける

書 家

河野 斗南さん

 楷書、草書は顔眞卿・王羲之、隷書はケ石如・漢碑範、行書は何子貞に体し、さらに古典各法帖等を臨して、中国の正統書法および篆刻の奥義を究めた書道界の泰斗、河野斗南先生。戦前より華族および政財界、文化人との交流が厚く、戦後も変わらず続いている。

 「幸運に恵まれた」と自身は言うが、それは天賦の書才に加え、並々ならぬ精進研鑽を積んだ結果であることは言うまでもない。数え95歳を迎える斗南先生に波乱万丈の人生をうかがった。

(インタビュー/津久井美智江)


篆刻の師、政財界人、華族との出会いが
運命の道を開く

――95歳の今も現役でいらっしゃる。書は毎日書かれているのですか?

龍字体の作品。それぞれの筆画に龍が描かれている。

龍字体の作品。それぞれの筆画に龍が描かれている。

斗南  書いてますねぇ。売れる、売れないは別として何か残したいと思い、長いものを。一人ですからね、やることもないでしょう。長いものを書かないと時間をもてあましてしまう。

――一人暮らしですか。家事などはどうされているのですか。

斗南  一昨年、ばあさんが亡くなりましてね。その前4年ぐらいずっと施設にいたんですが、その頃からご飯を炊いたり、洗濯したり、掃除したり……。一人でみんなやってます。

――身の回りのことをご自分でなさるのが、元気の秘訣なんでしょうね。

斗南  いやぁ、ばあさんが亡くなって、私もすぐに具合が悪くなりましてね。今は食道狭窄で中を金網で広げているんです。その前までは元気だったんですよ、毎朝5キロのダンベルを上げてましたし。ところが病気をしてから、からっきしだめになりました。

――まあ、90年以上も使っていれば、どこかが痛んでも不思議ではありません。

斗南  そうですね。ただ、書くと元気になる。これは職業病というのか、普段はよれよれしていても、筆を持つとしゃんとする。思ったとおり書けるんですよ、大きい文字でも小さい文字でも。

――書は小さいときから習っていたのですか。

斗南  曾おじいさんが漢学者で、おじいさんは科挙の試験を受けるくらい実力のある人でした。そのおじいさんから漢詩の作り方を習い、5歳のときに曾おじいさんから千字文(せんじもん)を習って、筆を持ったのが始まりです。

――では、物心ついたときから書には親しんでいらした。

斗南  小さい頃はいやでしたがね(笑)。ただ千字文は、曾おじいさんがほかの人に教えるのを聞いていて、自然に覚えました。子どもに漢字を教えるために使われた漢文の長詩で、千の異なった文字が使われているんですが、みんななかなか暗誦できない。私は何で苦労しているんだろうと思っていました。ところが、私の弟は3歳のときに覚え、よく神童だと言われました。5つのときに病気で死んでしまいましたが。

 漢文は17、18歳までに三国志をはじめ水滸伝などずいぶん原書を読みました。原書で読むとね、頭で解釈しながら読みますから実力がつくんですよ。三国志は三読しました、面白くてね。漢詩がたくさん出てくるんですけど、その頃は面倒くさくて飛ばしてた。ちゃんと読んでおけばよかったですね。

――その頃から書家を目指していらしたのですか。

斗南  本当は音楽が好きで、ピアノ、バイオリン、サキソフォン、トロンボーン……、全部やりました。でも、どうも音楽だけは長く覚えられない(笑)。これはだめだと、書をやるようになりました。

独立独歩、
中国の正統書法、篆刻の奥義を究める

――篆刻の技術はどこで身につけたのですか。

「千字文」などは下に枡を敷いて書くという。枡がずれるといびつになるので、最初から書き直さなければならない。

「千字文」などは下に枡を敷いて書くという。枡がずれるといびつになるので、最初から書き直さなければならない。

斗南  昭和12年、22歳のときに早稲田大学に入るために日本に来たのですが、そこで偶然、旧満州国皇帝の師である惺斎金台錫先生に出会った。先生は日本語がおできにならないので、通訳を兼ねて本式に篆書と隷書を習ったんです。その後、松林桂月先生に四君子(しくんし)を師事しました。学生の身分で塾を開いて教えていましたが、それでも最初は苦労しました。

――失礼とは存じますが、その頃は、韓国出身というと迫害とか差別がおありになったのではないでしょうか。

斗南  私は特別に運がよかったのか、警視総監をされた丸山鶴吉先生の知己を得て、いきなり岡部長景旧子爵にお会いすることになった。「あなたの書は、われわれ貴族にとても合っている。風格があるし、温かみがある」と、非常に気に入っていただいて、そこから徳川家正旧公爵、酒井忠正旧伯爵……公侯伯子男と、次々に貴族の方々をご紹介いただきました。松平康春旧子爵には、お屋敷に寝泊りしながら教えましたよ。

――当然それだけの力がおありになったからでしょう。それにしても人との出会いは大切ですね。

斗南  そうですね。日本に来たほかの人と違って、出会った方がみんな雲上の人でしょう。不愉快な思いはまったくしませんでした。むしろ、そういう方たちに対して恥ずかしくないよう、立派なものを書かかなければという気持ちになりました。

――日本の貴族階級が、戦前は先生のような才能をパトロネージュし、サポートしてくれたわけですが、戦後は零落します。そのとき先生はどうだったのですか。

斗南  私も同じように最悪ですよ(笑)。家もないし、書で飯が食える時代ではありません。

――戦後、国に帰ろうとは思われなかったのですか?

斗南  帰るつもりでした。ところが、ある人が私のところに来て、「先生、帰還証明を譲ってくれませんか」と言う。「私も帰るつもりだ」と断ったのですが、机の上に置いてあった私の外人登録の番号を見て、勝手に役所に行って手続きをしてしまった。しばらくしていろんな通知が来ないことに気がついて、役所にねじ込んだところ、相手はしどろもどろ。こんなけちがついたのなら、帰るもんか、とやめちゃったんですよ。

 それが私の運の良さでね、その翌年に朝鮮戦争が始まった。もし帰っていたら、私の田舎は南北が行ったり来たりするところだったので、命がなかったかもしれません。帰還証明を盗んだやつはけしからんと思いましたが、後から考えたら、私を助けてくれた恩人だったと(笑)。

――それにしても数奇な運命ですね。ところで、斗南というお名前は当時から使われていたのですか?

斗南  斗南というのは、友人に紹介された四柱推命の高木乗先生につけていただきました。「荻公(てっこう)の偉大さは北斗以南ただ一人あるのみ」という中語の言葉に由来するのですが、翌年の昭和31年には東横デパートで展覧会をすることになりました。この最初の展覧会は非常にうまくいきましてね。とにかく旧貴族の方々が皆さんお見えになってくださって、全部売れてしまった。東横もさぞかしびっくりしたでしょうね。

 それからは書一筋。昔の方ばかりでなく、子どもにも教えるようになりました。

――書道の世界にもいろいろ会派のようなものがあると思いますが、先生はその中には所属されなかったのですか。

斗南  一時、日本書道連盟には入りましたが、基本的には独立独歩、一人でやってきました。

――それもご苦労だったのでは?

斗南  それはありません。というのは、私は普通の先生たちの書けないものを書きますから、悪口の言いようがない。

 書家というのは、中国では昔から4つのことができないといけないといわれています。まずは漢詩。日本でも、和歌でも俳句でも自分でこしらえて書くのが本物でしょう。次は刻。刻というのははんこのことで、篆刻という刻ができなければならない。次は四君子。四君子というのは絵画のことで、梅蘭菊竹の総称です。それから書。この4つができて初めて書家と呼べるのです。

――では、日本には本当の書家といえる人はほとんどいない。

斗南  日本にも韓国にもいませんね。中国はいますよ。自分で書いて、自分で彫って、はんこ押して。もちろん、絵もやるし、詩も作ります。

老いてもなお、ますます高まる
好奇心、向学心

――そういえば、韓国のハングルは表音文字です。表意文字の漢字とは関係ないのでしょうか?

斗南  ハングルについて調べましたら、原点は日本にあったんですね。対馬のアヒル文字というのがそうで、千年ばかり前の菅原道真が実際に書いた文句が残っています。文化というのは探ってみると深いですね。

 特に、日本は島国でしょう。外から文化が入ってくるとその中で消化して、独特な文化をこしらえる。しかも何千年もそのまま残っている。

 言葉もそうで、日本語の中にヘブライ語が1200あるといいますし、ポルトガル語が2000あるといわれています。例えば「さよなら」はヘブライ語で「サイニャラ」。あなたの行くところ、敵が現れないことを望むという意味ですね。どうして人と別れるときに「さよ」「なら」と言うのか、いくら考えても漢字で解釈できなかった。そうしたら近年になってようやく分かりました。富士山というのも朝鮮語で「プリ」というのは「火が出る」という意味。日本の歴史は本当になぞが多いですね。だからとても面白い。

――先生のお話をうかがっていると、民族だとか国境だとかの争いが、いかにむなしいことかと痛感します。

斗南  特に宗教同士が敵対するのは悲しいことです。宗教とは人間を善化するのが目的ですから、敵対する必要はない。宗教を超えて親和するモデルを作ったらどうかと、韓国の大統領と親しい友人に提案したところです。

――平成3年には北京の中国革命歴史博物館、平成6年には台北の国立国父紀念館で個展を開催し、この11月には韓国で展覧会を開くそうですね。ますますのご活躍を期待しております。

[プロフィール参照]

撮影/石塚 恵

<プロフィール>

こうの となん。
大正3年(1914)生まれ。本名、河野仁寿。早稲田大学卒業。斗南または宗伯と号し、別号を杜南、扣月山房、一斎(篆刻)ともいう。幼少の頃より書を能くし、神童とうたわれる。長じては、書と篆刻を旧満州国皇帝の師、惺斎金台錫先生に師事し、四君子を松林桂月先生に師事し、各書体の蘊奥を極める。中国書の正統派として著名で、各書体に通暁し、特に隷書、篆書、古篆書では当代随一。さらに風格ある漢詩創作については並ぶものなく、篆刻については「美術年鑑」「美術家名鑑」等で、常に最上位に評価されている。朝日新聞社社印をはじめとして、近衛文麿旧公爵、吉田茂元首相、岡部旧子爵、徳川旧公爵、酒井旧伯爵、松平旧子爵、浅野旧侯爵、三井家等、政財界人著名人の印刻に数多くの絶品を残している。代表作「百寿図」は皇室に献上の栄に浴した。平成3年10月に北京の中国革命歴史博物館で書道展を開催。平成6年9月には台北の国立国父紀念館で個展を開催するなど国際的に活躍している。今年11月に韓国で展覧会を開催予定。

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