危機管理とは

  • 記事:平田 邦彦

コロナ禍は国家存亡の危機

 三回目の緊急事態宣言が出されても、感染者数の減少は見えてこない。緊急事態疲れと言うか、変異株の発生に加えて、慣れが生じて第一回のような顕著な効果は期待できそうにない。

 そもそもこのコロナ・パンデミックをどう考えるのか。基本的な捉え方、認識に問題があることをもっと強く理解すべきではないだろうか。平和ボケも極まれりで、個人の私権を制限されることに、国民はまだまだ抵抗があるし、政府もその状態に忖度して、いきおい弱腰の対応に終始しているように見える。野党もマスコミも国家の危機に直面しているとの認識は浅く、政府の揚げ足取りに終始して、国民の意識を変えねばならないことには触れてこない。

 危機とは敵に対処する一枚岩の意識統一が求められる事態なのだし、そこには私権の行使に大きな制約が課せられてしかるべきなのだ。

 この見えざる敵に立ち向かうのに、私権が犠牲になることはやむを得ない。それを言うと一億火の玉になってなお敗れた第二次世界大戦の轍を踏むのかとの反論が出てくるが、当時の日本はその国家存亡の危機に立ち向かうのに一致団結してなお敗れた。

 このコロナとの戦いを同じように敗れて良しとは誰も思わないだろう。いまマスコミ、野党が果たすべき役割は、政府を批判する前に、望ましい対案の提言と、国民の危機意識を喚起し、一枚岩の世論を形成することではないのか。

 危機管理とは正にその方向にあってこそ成り立つもので、無知なるクラウドの立場に立つことが許されないとの自意識を、もっとしっかりと認識すべきではないだろうか。私権の制限に跛行性があり、不平等な立場に立たされたとの訴えも理解できるが、いまここで求められているのは「我慢」なのだ。

 その「我慢」に耐えてこそ、戦いのエンドポイントは見えてくるし、不平等の解消は戦いが済んでからでも果たせる。

 ワクチンの接種が始まっているが、それだって不公平があったり、抜け駆けをする不逞の輩が、事もあろうに組織の長たる人間にまで現れている。それだって国民によって選ばれた選良であったりするのは、選んだ我々に帰する責任なのだ。

 要は危機意識なるものの認識がかくも緩んでいることを自覚し、この轍を繰り返さないように心がけるしかない。

 この戦いを絶好の機会と捉え、すっかり染みついた平和ボケから抜け出し、世界の範たる姿を取り戻そうではなか。

 マスコミ、特にTVのワイドショーの無責任なセンセーショナリズムを厳しくしかりたい。誇りある日本人を取り戻してくれ。

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