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インタビュー
2010年1月20日号
狂言師 山本東次郎さん

狂言は、人間の愚かさを描いた心理劇です。

狂言師

山本東次郎さん

 厳粛な能に対して、狂言は滑稽な対話劇―「笑いの芸能」とみなされることがある。しかし、単なる「お笑い」であれば、600年もの時を経て、古典となることはないはずだ。狂言は、人間が持っている愚かさや弱さを厳しく見つめつつも、それらを糾弾したり、暴露したり、追求したりしない。そして、あえてドラマティックにしないところに狂言の狂言たるゆえんがある。狂言方大蔵流・山本東次郎家当主として、山本家の芸を受け継ぐ山本東次郎さんに狂言のあるべき姿をうかがった。

(インタビュー/津久井 美智江)

狂言は、人間が持っている愚かさや弱さを、
劇的にならないレベルで提示しています。

―狂言は、能とともに日本を代表する伝統芸能です。現代まで脈々と受け継がれ、今また注目を集めている狂言の魅力とはどこにあるのでしょう。

山本 私は、狂言は、人間の愚かさを描いた心理劇です、とはっきり申し上げています。それから、狂言の本質は言霊にあると思っている。少な少なの言葉、つまりそぎ落としそぎ落としした少ない科白の中に、狂言の真髄があると思うのです。

 例えば、『末広』という曲があります。

 天下泰平の世の中で、人びとはあちこちで宴会を開いて楽しんでいる。平和であることが、それほどめでたかったのですね。ついては、自分のところでも一族の人びとを招いて宴会をしようと思い、果報者の主人は、召し使う太郎冠者を呼び出して、当日、上座に着くお年よりに引き出物として末広がりをプレゼントしたいのだが、道具箱の中に末広がりはあるか、と尋ねます。末が広がっている、将来にいいことがあるようにという祈りをこめたプレゼントなんですね。

 太郎冠者は「お道具は、ことごとく存じておりまするが、末広がりと申すものは、ついに見たこともござらぬ」と応えます。主人は、家にないのなら今すぐ京(みやこ)へ行って買ってこい、と太郎冠者を使いに出します。その時に「まず第一地紙良う、骨に磨きを当て、要元(かなめもと)しっととして、戯れ絵ざっとしたを求めてこい」と条件をつけるのですが、実は太郎冠者、末広がりがどんなものか知らなかったのです。

 「末広がりとは何ですか?」と一言尋ねれば良いものを、道具を取り仕切る立場としての見栄もあって、聞くことができなかった。主人も主人で「うちにあるか」という問いかけに対して、「見たことがない」というおかしな返事をした時に「お前、末広がりを知っているね」と一言確認すればよいものを、太郎冠者に全幅の信頼を寄せていることもあって聞かない。

―分からないことを分からないと言えない弱さ。確かめることをせず、説明すべきことをしない驕慢。誰にでもある愚かな行いです。

山本 狂言は、洋の東西、古今を問わず、老若男女を問わず、人間が持っている愚かさや弱さを、劇的にならないレベルで提示しているのです。愚かさや弱さを糾弾したり、暴露したり、責任を追求したりしない。劇的に事件にして演じたほうが喜んでくださるかのかもしれませんが、あえてしない。なぜかというと、事件というのは特別な人の行き着いてしまった果ての姿。普遍性を持てなくなります。舞台の上で提示された人間の愚生を、観客が対岸の火事としてご覧になるのではなく、自分のこととして考えることができるように、あえてドラマティックなことをしないのです。

 

実は、太郎冠者の心の奥にある、
都会コンプレックスが秘められているのです。

―末広がりを知らずに京へ行った太郎冠者は、どうなるのですか?

狂言師 山本東次郎

 

山本 浮かれるように京へ行った太郎冠者ですが、はたと気付いたら末広がりを知りません。京大路で茫然自失なんですね。すると、あたりに売り声高らかな大道商人の姿を見つけます。売るものがああやって売れるのだったら、きっと買うこともできるはずだと、間抜けな話、京大路で「末広がり買おう、末広がり買いす」と、呼び回るのです。

 ここに登場するのが「これは洛中を走り回る、心に直ぐにない者でござる」と名乗るあまりたちの良くない男。親切ごかしに近づいてきて、太郎冠者が末広がりを知らないことを確かめると、「この広い京の中で末広がりを専門に商っているのは自分だけだ。お前さんは幸せ者だ」と言って、唐傘を売りつけた。傘を開けば確かに末広がりになっている。貼られた紙も良く、骨も滑らかで、要もしっかりしている。戯れ絵というのは戯れ柄のことで、傘の柄でもって戯れるから、主人に言われた4つの条件はすべて満たしていると、太郎冠者を丸め込むのです。

 太郎冠者は大金を払って唐傘を買い、大喜びで帰ろうとすると、男は「お前は主人持ちのようだが、主人というのは機嫌のいいときもあれば悪い時もある。機嫌の悪い時にこの歌を歌ってごらん」と言って、一つの歌謡を教えてくれました。

 実は、太郎冠者の心の奥には、京に対する憧れやコンプレックスがあるんですね。京は素晴らしいところだ、犯罪なんかないと思っている。だから、ころりとだまされてしまったわけです。

 京のセンスのいい歌を仕入れたこともあり、太郎冠者は意気揚々と帰宅し、自信満々で主人に唐傘を差し出します。ところが主人は、冗談はよいから早く末広がりを出せとたしなめる。太郎冠者は「ご主人さまも末広がりを知らないのですね」と、京で聞いた唐傘の説明をすると、ついに主人は怒り出し、「末広がりとは扇子のことだ。そんな傘など台所に行けばあるではないか」と怒鳴りつけます。太郎冠者が「末広がりが扇子のことなら、初めから扇子を求めてこいと言ってくれれば良いものを」と口答えすると、ますます怒った主人は太郎冠者を庭へ蹴り出してしまいます。

 困り果てた太郎冠者ですが、ふと京で教えられた歌のことを思い出し、「これを囃いてご機嫌を直そうと存ずる」と言って歌い出した。すると主人は、太郎冠者の面白い歌に、怒っていた心がだんだん和らいで、楽しくなって浮かれる。めでたいことだと太郎冠者を呼び入れて、ねぎらいの言葉をかけ、酒でも飲めすしでも食えと、二人でうち興じるのです。

―めでたし、めでたし、ですね。

山本 この曲は、さっき申し上げたように、知らなかったら一言聞けばいい、不審に思えば確認すればいい。ところが、それができなくて、とんでもないことになってしまった。

 これは話題を置き換えれば、今でもみなさんの日常にあることでしょう。狂言の普遍性とはここなのです。そして、歌謡という芸能の持つマジックでお互いの気持ちが直って、許されて、太郎冠者と主人の主従関係がよりよくなれば、これは将来いいことがある―つまり、末広がりなのです。そこまで読んでほしいと思います

 

私は、世阿弥に褒められるような
狂言をしたいと思っています。

―狂言は科白とおっしゃいましたが、身体表現でもありますよね。大げさに言えば数センチ手の位置が違うだけで、ニュアンスは違ってまいります。やはり厳しい稽古の賜物なのでしょうね。

山本 その通りです。私はよく一挙手一投足をゆるがせにするなと言います。狂言で描いている世界というのは、例えば私が個性的な演技をしますと、私の身の上の話だけになって、観客とは関係なくなってしまいます。ですから、それを型でやる。科白も、演劇としてのリアリティをもった抑揚とか緩急、強弱というものをむしろ封じ込めるのです。型でやることによって、みなさんの心の中にある愚さとつなげ、気付いていただけるのです。

 ところが、家によっては、個性的に自分の思い通りに演じて、観客が笑えばいいという考え方もあります。「狂言は室町時代の吉本だ。だから古典だけれども、吉本のようにバイタリティのある笑いがないといけない」と言う人もいます。

 しかし、能楽の創始者である世阿弥は、「観客がわーっと笑うようなものは俗な芸風である。雅で、しかも品のいい笑い。これが狂言の理想だ」と言っています。私は、やはり世阿弥に褒められるような狂言をしたいと思っています。

 狂言でなければできないものをきちんと守っていく。ほかでできるものはそちらに任せればいい。その場限りではなく、絶対でありたい。どこかに理想を見ていたいというのが私の考え方です。

―なればこそ、歴史の風雪に耐えて伝わって、古典になり得たということでしょうね。これから先を考えた時、狂言はどうあるべきとお考えですか?

山本 今までどおりにするしかないと思います。

 昔、作家の水上勉さんとお話したことがあります。私が「狂言が時代と離れていくので、説明しなければいけないのかもしれないけれども、説明すると古典じゃなくなる」と言いましたら、水上さんが「昔は見巧者、聞き上手がいた。今の世にも必ずいるはずだ。それを信じたほうがいい」とアドバイスしてくださったのです。私はその時にわが意を得たような気がして、きっと分かってくださる方がいると信じて、胸を張ってやっております。

 そのためにも、いい観客をいかに開拓するかということですね。国立能楽堂ができて25年、横浜能楽堂も10年ちょっと経ちますが、それぞれ見巧者、聞き上手の観客が育っています。子どものための公演も行っていますが、小学生が意外と興味を持ってくれるのには驚きました。それは真っ白な心と眼で観ているから、パッと本質を捉えるのでしょう。アンケートなんかを見ていますと、びっくりするような反応があります。これは大事にしていきたいと思います。

―海外の反応はいかがですか?

 梟(ふくろう)という狂言をフランスでやったことがあります。

 弟が山から帰ってくると、得体の知れない病気にかかっている。心配した兄は山伏のところへ行って祈祷してくれと頼みます。山伏が祈り始めると、弟が「ほっほー」と奇妙な鳴き声。これはどうやら梟が取り付いたらしいと、山伏はまた力を込めて祈ります。ところが、今度は兄のほうも「ほっほー」と鳴き出した。さらに必死に祈っているうちに、最後は山伏も「ほっほー」と鳴くという話なんですね。

 日本だとナンセンスな笑いだと馬鹿にする観客もあるんですが、フランスでは、梟が取り付いていくと観客がシーンとしてくる。このナンセンスは何だろうと思っているらしいということが伝わってくるんですね。

 狂言ができたのは、鴨長明の『方丈記』にもあるように疫病がはやり、賀茂の川原に骸が累々とあったような時代です。弟から兄へ、そして山伏へと感染していく得体の知れない奇妙な病気―。狂言は、この話にさまざまな意味を込めているのですね。言葉の通じないフランスの人が、人間の無力さとか根源的なものを観てくださったような気がして嬉しかったですね。

 親父がよく言っていました。「狂言というのはすぐに反応がくるよう期待してはだめだ。大きなたらいに水を張って、一本の箸でゆっくりかき回す。初めは何の変化もないけれども、それをひたすら続けているうちに、全体に水流が起こる。それと同じで、淡々と演じていると、やがて会場全体に伝わっていくものだ」と。

 狂言という芸能は確かにそういうものかもしれないと思いますし、ここが吉本と本質を異にする喜劇なのです。

 


狂言師 山本東次郎さんプロフィール

撮影/加藤 ゆみ子

<プロフィール>

やまもと とうじろう
1937年、東京都生まれ。狂言方大蔵流・山本東次郎家四世。三世東次郎の長男。芸術祭奨励賞、芸術選奨文部大臣賞、観世寿夫記念法政大学能楽賞、エクソンモービル音楽賞(邦楽部門)、日本芸術院賞などを受賞。紫綬褒章受章。重要無形文化財総合指定。財団法人杉並能楽堂理事長。社団法人能楽協会会員。著書に「狂言のすすめ」「狂言のことだま」「山本東次郎家 狂言の面」「中・高生のための狂言入門」(共著・近藤ようこ)など。

 

 

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