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インタビュー
2011年4月20日号

 

彫刻家 重岡 建治さん

彫刻も人もつながることで強くなる

彫刻家

重岡 建治さん

 重岡建治さんの作品は、伊東市のなぎさ公園をはじめ、駅前広場や公共施設など全国各地にある。その特徴は、触れることができること。“つながる”ことをテーマにした作品は、家族、そして人と人との絆が求められている今こそ心にしみる。彫刻も、絵を描くことも、楽しくて、楽しくて――。子どものように目をきらきらさせながら創作の魅力を語ってくれた。

(インタビュー/津久井美智江)

芸術は自分の内面から沸き上がるもの
先生に教わるものではありません

―木彫、ブロンズ、絵画と幅広く活躍されていますが、スタートは何だったのですか。

重岡 彫刻です。絵を描くより先に彫っていました。
 僕は、引揚者なんです。小学3年の時にソビエト国境の中国東北部、チャムスというところで終戦を迎え、母と兄弟5人で1年数カ月かけて引き上げてきました。父は中国では孤児院をやっていたので、日本でもその事業をやろうと、熱海の山の中で開拓することから始めたんです。
 今はゴルフ場になっていますが、その頃は電気も水道もないただの山で、熱海の土産物屋の人が材料の竹を取りに来ていました。まだ子どもでしたが、竹を切ってくれと頼まれましてね。でも、竹を切って町に運ぶだけではたいした収入にはならない。それで自分で玩具などを作って売り始めたんです。
 高校生になってからは、広島の宮島や京都などの観光地を旅し、露店を開いて彫りながら売り歩きました。

―生活のために?

重岡 父親が病気になり、兄弟で支え合って生きなければなりませんでしたからね。
 労働者の日当が1日300円くらいでしたが、僕は1日最高6000円くらい売った。だから1回旅すると3万~5万くらいになりました。
 まともに高等学校も行けなかったので、兄と僕は定時制高校に同時に入り、弟は新聞配達をしながら昼の高校に通いました。その頃から「自分は彫刻家になる」と決心していましたね。

カメラマンのリクエストにこたえてアトリエ入り口に積まれた乾燥中の楠に登ってくれた

―彫刻では食べられないのでは、という不安はなかったのですか。

重岡 まったく。とにかく、自分の道は自分で作っていくしかないと思っていた。美術学校の存在を知り、試験のために1日だけデッサンを習ったのが、「瞽女(ごぜ)」で有名になった齋藤真一という方で、伊東高校の先生だったんです。齋藤先生には「彫刻では生活できない、彫刻だけは止めたほうがいい」と言われましたね。
 それでも、どうしても彫刻をやりたくて、多摩美術大学の圓鍔勝三(えんつばかつぞう)という先生を訪ねたんです。「君、金はあるか」と聞くので「ありません」と答えると、「しばらく家へ来てみるか」と言われた。弟子入りですね。先生には、木の見方からノミの研ぎ方まで、彫刻の一から十まで教わりました。

―よく預かってくださいましたね。

重岡 だから美術学校には行かなかったんです。学校ですと、どちらかというと芸術を教わりますね。ところが先生のところでは、どちらかというと食べるための仕事―大黒様を彫ったり仏様を彫ったり―を教わりました。
 芸術は、自分の内面から湧き上がるものであって、教わるものではないということだったんでしょうね。

一本の線で描くデッサンは、消すことのできない人生のようなもの

作品が点在する庭はまるで野外美術館のよう

―エミリオ・グレコ氏との出会いは、いつ頃のことですか。

重岡 圓鍔先生のところにいる時です。イタリア彫刻展が日本で初めて開かれ、グレコの作品に衝撃を受けました。イタリアに行って学びたいと、先生のところを独立して8年間お金を貯めるために努力しました。
 イタリア行きに際しては、作品を買ってくれた人がいるんです。父の友人でヤクルトの常務だった方で、ちょうど退職する時だったんですね。日展に入選した作品を5点買ってくれました。

―イタリア行きを知って、応援してくださったのですか。

重岡 僕が手紙を出したんです、彫刻を買ってくださいと。それを機に、不思議とアトリエにあったすべての作品が売れて、500万くらいできました。全財産を持ってイタリアに行き、4年半というもの一切仕事をせず、金がなくなるまで必死で勉強しました。
 1971年のことですが、当時は外国に勉強に行くというと、皆さんが餞別をくださるんですね。しかも、伊東を発つ時には駅前で50人くらいの人がバンザイ、バンザイ、羽田の飛行場でもバンザイバンザイ。本気で勉強しなければ日本に帰れないと思いました。

―それで、グレコ氏に会うことはできたのですか。

重岡 僕がイタリアに行く1年前に、ローマ国立アカデミア美術学校に教授として来ていた。ひと目会えればと思っていたんですが、運よくグレコの教室に入ることができました。

―グレコ氏の教えとはどんなことだったのでしょう。

重岡 とにかくデッサンです。「こう描け、ああ描け」というのではなく、「これは捨てなさい、これは残しなさい」という教え方。グレコが残した何枚かのデッサンを自分で判断するわけです。それで、自分自身の世界がだんだんできていくという指導の仕方でした。
 だから、消しゴムで消すようなことはしてはいけない。消すことのできない人生を、自分なりに学んでいくということなんでしょうね。今でもデッサンは毎晩やっています。

―お金を使い果たして、どうされたのですか。

重岡 日本に帰って展覧会を開くにしても、作品をブロンズにする金もない。
 それで、静岡新聞に勤めていた長兄に「100万円貸してくれ」と手紙を書いたんです。「この100万は1000万になるから」とホラを吹きましてね(笑)。「バカ言え」と言いながらも貸してくれまして、ブロンズにして持って帰ることができました。展覧会を開きましたら、十数倍になりました。大勢の方が応援してくださったんですね。

―ホラじゃなくて良かったですね(笑)。

重岡 僕がイタリアにいたのは、エミリオ・グレコ、ジャコモ・マンズー、マリノ・マリーニといった優れた彫刻家が10人くらい登場し、イタリアではミケランジェロ以来、第二のルネサンスが始まったといわれた時代です。そういうエネルギッシュな時代に自分がそこにいられたのは、非常にラッキーでしたね。

触っても壊れないことにこだわった結果、たどり着いたのがつながる彫刻です

―作品を作る上で大事にしていることはどんなことでしょう。

重岡 まず触っても壊れない彫刻ということです。
 子どもが小さい頃、美術館に行ったんです。作品を触って歩いていたら、監視員の人に怒られたんですよ。それ以降、子どもは美術館に行くのはイヤだと言い出しましてね。だったら触っていい彫刻を作ろう、触っても壊れない彫刻を作ろうと決心したんです。30年前のことです。

―触ったら折れそうな彫刻っていっぱいありますものね。

重岡 それはそれでいいのでしょうけれど、僕は触っても壊れない彫刻にこだわった。その結果、たどり着いたのがつながる彫刻です。つながることによって強度が保てるんです。特に意識したわけではないんですが、僕の彫刻は家族をモチーフにしたものが多い。考えてみれば、家族はもっとも強い人と人とのつながりですね。

―最近、絆という言葉がはやっていますが、とっくに作品になっていたわけですね。

重岡 それから大地から生まれるというのも大きなテーマです。
 伊豆は楠の産地なんですが、マンション等の開発が始まって、直径1mもあるような楠が無造作に切られていった。楠は彫刻に最も適した木です。若い時に木彫を勉強していましたから、切り倒された木をもう一度再生させなければならない、それが僕の仕事だと感じました。作品の足元を見てもらえば分かりますが、大地から生まれたようになっているでしょう。

水を指で押さえると上の穴から水が出て飲める仕組み

―作品のイメージはどこから生まれてくるのですか。

重岡 野外モニュメントの注文を受けると、その場所の背景や図面を見せてもらいます。そして現地に行き、どれくらいの大きさで、どういうテーマのものがいいかということを考えます。

―形のあるものですから、周りの雰囲気や光の加減なども重要なのでしょうね。

重岡 一つ言いたいのは、彫刻を設置するに当たって大きな間違いが行われているということです。優秀な賞をもらうといい作品だと思って、周辺の環境も考えずに置いてしまうんですね。そうすると、傑作が駄作になることがある。僕は駄作でも傑作になる可能性をもつものが造形の美だと思っているんですが、反対に傑作が駄作になる可能性もあるということに気がついてほしいですね。
 それから、大きい作品になると高射砲みたいにライトアップされるんですが、それも僕は気に入らない。とうとうライトを埋め込んだ彫刻を考え出しました。動く彫刻も含めて、常に環境を意識して作品を作っています。だから僕は、あるものを持っていくのではなく、現地に行って考える。すると、ごく自然にいろんなイメージがわいてくるんですよ。

―最近はどんなことに注目されているのですか。

重岡 野外モニュメントならぬ、室内モニュメントです。最近のビルやマンションは石とセメントとサッシとガラスでできていますね。そこに木を持ち込む。モニュメントとしての木彫により、新しい室内空間を作ることは、これからとても大切だし必要だと思います。

―しかも、それが触れるわけですよね、素敵です。

重岡 触るとつやが出たり、良くなる彫刻を考えたい。その一つの結果がドアの取っ手や蛇口です。どちらもいやでも触らなきゃならないでしょう。
 僕の理想としては芸術がごく自然に生活に溶け込んでいること。かつて日本家屋にあった床の間や欄間、襖の引き手のように、そこまで芸術が生活に入っていけばいいなと思っています。

 


撮影/木村 佳代子

<プロフィール>
重岡 建治(しげおか けんじ)さん
1936年、旧満州ハルビン生まれ。伊東高校卒業後、彫刻家、圓鍔勝三に師事。1971年、イタリアに留学。エミリオ・グレコに師事。現在は伊豆・大室高原にアトリエを構え、ブロンズ、大理石、木彫など多彩な制作活動を続ける。北海道由仁町「生命の樹」、伊東市・なぎさ公園「家族」、静岡県土肥町・恋人岬「AMORE」、熊本市「原爆犠牲者の像」など全国各地でモニュメントを制作。イタリア・リエティ市庁舎の「大地より生ずる」など海外にも作品がある。

 

 

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