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暮らし・文化
2011年7月20日号

らくがきスポーツカフェ(12)

スポーツのもつ癒しの力を信じる

スポーツ・プロデューサー、NPO法人スポーツ見物協会 堀田 壽一

 かつて、海老原博幸というプロボクサーがいた。生涯成績68戦62勝(KO33)5敗1分の元世界フライ級チャンピオンで、小気味良く決める左ストレートは「カミソリパンチ」と称されファンを魅了した。彼を初めて見たのは19歳の頃。私は働きながら学費を稼いでいた。職場のスポーツ・プロデューサーに同行し、記者席で初めて取材したのが海老原選手だった。

 選手の飛び散る汗がかかるほどの至近距離、ステップ音と打ち合う音が間近に聞こえた。カミソリパンチのノックアウトは見られなかったが、信じられないアクシデントに遭遇した。「ブッツ」という音がリングから聞こえたのだ。それは、靴が破れた音だった。

 パンチがヒットするか、かわされるかは数ミリの差。ミリ差を無くし確実に顔面に放つパンチは、スピードある全力の踏み込みから生まれる。踏み足は全身の強い威力を支えるのだ。靴底を縫っている糸が切れても、海老原選手は戦いをヤメなかった。彼の勝利への闘争心は、ネクラだった私を驚愕させた。同い年の彼は凄かった。

 私は父を戦争で亡くし、家も大空襲で壊滅した。優雅な専業主婦だった母の人生も急転、6人の子どもを喰わせるため、激甚な人生が始まった。

 学校では給食代をもって来いと、先生にソロバンで頭を叩かれたこともある。中卒後は育英会が助けてくれたが、それでも学費未納は多かった。

 13年後、何とか苦難を乗り切った一家に、今度は伊勢湾台風が襲いかかり、家財は全滅した。私はネクラなうえに、心のいじけた18歳に育った。

 海老原選手は、靴がどうなろうと知ったこっちゃあなかった。命がけで頂点を目指す闘争心に私の心は震えた。そこに海老原魂を感じた。片親と被災を心の内の楯にして、いじけネクラな自分の魂はさ迷っていた。いじけ病は再発したが、海老原魂はいつも心の片隅から甦り今が有る。

 東日本大震災で肉親を失った子どもたちの心痛は計り知れない。スポーツ選手が被災地を慰問し声をかける、チャリティーマッチで全力を見せる。時代は変わり、今は多くの支援体制があるが、スポーツ選手の鍛錬と挑戦が子どもたちを感動させ、悲しみを癒す心の支えが芽生えると私は信じている。

 

 


<筆者紹介>

堀田 壽一(ほった じゅいち)

愛知大学経済学部卒業。NHK入局。報道カメラマンを経て、NHKスペシャル「アフリカに架ける橋」「飢餓地帯を行く」「呉清源」など幅広いジャンルでカメラマンとして活躍。スポーツも各種目を取材、スポーツ報道センターチーフプロデュサーとしてサタデースポーツ、サンデースポーツ副編集長を務める。オリンピックはリレハンメル、アトランタ、シドニー、サッカーは1998年のフランス大会を現地取材。特にJリーグは1983年から取材を続けている。1997年、NHK退職後、関連会社でスポーツ番組制作に参加。2007年からフリーランス・スポーツプロデューサー。日本トップリーグ連携機構マネージメント強化プロジェクトアドバイザー、NPO法人スポーツ見物協会会員。

 

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