HOME » トップインタビュー一覧 » トップインタビュー Vol.56 アーティスト・画家 ヨウコ・グランサーニュさん
インタビュー
2012年8月20日号

 

アーティスト画家・デザイナー ヨウコ・グランサーニュさん

日本の伝統芸術を、モダンに21世紀に蘇らせたい

アーティスト画家
デザイナー

ヨウコ・グランサーニュさん

 フランスとモナコに生活の拠点をもち、日本の伝統芸術である琳派を現代にモダンに蘇らせる芸術活動「RIMPA ART」を展開。東洋と西洋が見事に融合したその作品は、ヨーロッパの人びとを惹きつけてやまない。自らの創作はもとより、琳派を代表する尾形光琳没後300年を記念する「GOLD RIMPA展」をヨーロッパで開催するべく精力的に活動しているヨウコ・グランサーニュさんにお話をうかがった。

(インタビュー/津久井 美智江)

14歳の頃、尾形光琳の画集に感動し、
美を追及する芸術家になることを決意

―高級リゾート地として知られるコート・ダジュールを拠点に展開されている「RIMPA ART」また「GOLD RIMPA」とは、どんな芸術活動なのですか。

ヨウコ 19世紀後半、浮世絵がヨーロッパの芸術家に衝撃を与えたといわれますが、その浮世絵に影響を与えているのが琳派だと思うのです。私の21世紀の作品だけでなく、印象派、浮世絵、琳派と連綿とつながっている歴史を、それらの作品を通してお見せしたいと始めたのが「RINPA ART」と銘打った活動です。2009年にモナコで開催した展覧会「今日のRIMPA」でスタートいたしました。

―琳派に魅せられたきっかけは。

ヨウコ 14歳の頃、たまたま家の書棚にあった尾形光琳の画集を目にいたしまして、衝撃を受けたんです。
 時代背景もあるのでしょうけれど、両親はとても西洋文化を愛していまして、音楽といえばクラシック、書棚にはフランス文学やロシア文学、壁にはモネやルノワールの複製画がかかっているような環境で育ちました。
 そこに尾形光琳です。金箔の『燕子花図』とか『紅白梅図』の美しいこと!
 この日本の伝統芸術、特に琳派の美しさを現代に蘇らせたい、そのエスプリを何とか生かし、モダンに表現できないものかという思いが、私を芸術の道に進ませました。

―大学は教育大学ですよね。

ヨウコ 両親は私を外交官にさせたかったんですね。外国の方と交流する上でいろんな文化や教養を身に付けていなくてはいけないと、幼少の頃からピアノを習ったり、デッサンや油絵を特別に習っていましたが、実際に「芸術家になりたい」と宣言した時には大反対されました。
 それで、両親の希望と私の希望の折衷案として、国立京都教育大学の美術科を選んだんです。それに、大学に入る前から留学しようと決めていましたから、国立大学に与えられている日本政府給費留学の制度も魅力でした。留学生は各大学から1人しか選ばれませんから、毎年、全優を目指して一生懸命勉強しました。

宮城漁業組合の孤児たち11人のために義援したモナコ・ヨットクラブへのお礼の象徴として飾られている「海と昇る太陽(日本)」

宮城漁業組合の孤児たち11人のために義援したモナコ・ヨットクラブへのお礼の象徴として飾られている「海と昇る太陽(日本)」

―努力の甲斐あって見事留学生に選ばれたわけですが、フランスでは何を。

ヨウコ フレスコ画を学びました。教育大では日本画を専攻しましたので、フランスでしか学べない技術をと思いまして。

―フレスコ画の技術は、今の「GOLD RIMPA」を描く上で役に立っていますか。

ヨウコ それはもう。フレスコ画も屏風も空間を飾るもので、装飾的な意味の強い芸術ですからね。

―その後の人生をフランスやモナコで送ることになると、想像していましたか。

ヨウコ フランス人と結婚するなんて思ってもいませんでした。でも、夫になる人と出会ってしまいましたので、それも運命かと。それで、大学を卒業するために一度日本に戻り、すぐにフランスに渡って結婚しました。

 

日本人初のデザイナーとして、
クリスチャン・ディオールで活躍

―翌年にはお子さんも生まれて、程なくしてクリスチャン・ディオールに勤めることになるわけですが。

ヨウコ 長年、勤めていた日本人の方が辞めることになったので、お誘いを受けたんです。
 実は母はディオールが大好きだったんですね。私がディオールのデザイナーになったら、芸術の道に行って良かったと、ちょっとは思ってくれるかもしれないと。立候補しましたら、たまたま選んでいただきました。

―デザイナーとして入られたのですか。

アルプマリチム県立ニース東洋美術館に常設されている作品 ※クリックすると拡大されます

ヨウコ もちろんデザイナーを志望して入社したのですが、実際にはライセンスを持つ日本企業と本社とのアテンドが私の仕事でした。
 どうすればデザイナーに転身できるか悩みながらも仕事に忙殺されていた2年後、オーナーがベルナール・アルノー氏に代わりました。ディオールの年に1回のお祭の時に、彼が850人の社員を前に就任演説をしたのですが、スピーチを終えると私を目指して歩いてらして、握手をしながら私の目を見て、「あなたはこの会社に働いていて幸せですか」と聞いてくださったのです。

―なんて答えたのですか。

ヨウコ 思い切って「芸大を出てデザイナーになるためにこの会社に入りました」と言いました。そうしたら、850人の中からチーフ・デザイナーのマーク・ボアン氏を探し出して、私を紹介してくださったんです。私に才能があるかないか何もご存知ないのにもかかわらず。アルノー氏には30年近く経った今でも、心の中で「あの時は本当に……」と感謝しています。
 ところが、半年経っても進展がない。それで、第1部がライバルの有名ブランドの分析、第2部が自社商品の分析、第3部が新商品ラインの提案という3部から成る企画書を作り、機会を待つことにしたのです。1年後の恒例のお祭の時、またアルノー氏からお声をかけていただいたので、「見ていただきたい企画書があります」と伝えました。
 すると翌日、貿易部長から連絡があり、企画書を見せていただくと。2時間後には社長室に呼ばれ、その瞬間にオートクチュール・アクセサリーのデザイナーとして抜擢されました。

―デザイナーになれたとはいえ、楽しいことばかりではないと思うのですが。

ヨウコ おっしゃる通り。私は個室を与えられましたが、正社員のデザイナーでも個室を与えられているのはごくわずか。仕事は楽しかったのですが、それがためにいろいろと気を遣うことが多く人間関係が大変でした。
 でも、今のオートクチュールの体制になる前の、いわゆるベル・エポックの時代。得がたい経験をたくさんさせていただきました。

―せっかく念願のデザイナーになれたのに、なぜ辞めてしまったのですか。

ヨウコ それはやはり絵を描くことに専念したい、芸術家として作品を創り続けたいという思いが強くなったからです。

 

瞑想状態のインスピレーションで、一気に作品を描き上げる

―金箔を貼ってアクリルで描く「GOLD RIMPA」のスタイルは、どうして生まれたのですか。

ヨウコ 私は子供の頃から油絵を習っていましたし、また日本画を学び、その後ヨーロッパのフレスコ画の伝統技術を習得しました。琳派を現代にモダンに蘇らせることと同時に、東洋の芸術と西洋の芸術の融合を図るにはどうしたらいいかということが、私の芸術のテーマになっていったんですね。
 学生の頃は、斬新にメタルの上に日本画の膠や岩絵の具などを使って描いたりもしていましたし、パフォーマンスなどの前衛芸術もやっていました。

―金はメタルですね。

ヨウコ そうです。金箔を使うようになったのは訳があるのです。強烈に印象に残っている大学の先生の教えなのですが、それはコンピューターが絵を描く時代になる。例えば、ピカソの絵をたくさんコンピューターにインプットして操作すると、次にどう見てもピカソとしか思えない絵を(コンピューターが)創作する。そういう時代に画家として生きるということを考慮しなさいということでした。  実際、コンピューターで絵を描いて、カンバスにプリントアウトして透明樹脂で筆感のボリュームをのせ、枠に張ったら、本当に描かれたものなのか印刷されたものなのか分からない絵もできます。
 音楽家の作品がレコードとして世に出るように、自分の作品がたくさん作られることは画家としては夢見た世界ですが、実際には逆でした。やがてコンピューターやプリンターではできないもの、絶対に誰も真似できないものをという思いが芽生えてきて、それで金箔を使うようになったのです。金箔はとても日本の伝統的要素を表していますでしょう。そこから西洋との融合を図ろうと思いついたのです。

―やはりオリジナルの作品は、訴えかけてくるものが違うと思います。

ヨウコ 特に金というのは、私は色ではなく波動と捉えています。そこから発せられるポジティブなエネルギーに魅せられるのです。
 私は、脳がアルファ波を出している、いわゆる瞑想状態のインスピレーションで一気に描き上げます。ですから、自分の計算が入る余地がない。ハッとわれに返ってから、左脳で計算して描き足して、潰してしまったことが何度もあります。

―琳派は丁寧に描き重ねていくものだと思っていました。

ヨウコ もともと日本画は、自然を線として抽出して描く絵画様式です。私のスタイルはそのような具象とは違い、「アイリス」のように具象の形を対象にはしてはいますが形象を描くのではなく、ものの波動を描く抽象です。そのためには無の境地に入ることが必要です。失敗が許されない、一挙に描く水墨画の世界に似ているかもしれませんね。

―2010年にはアルプマリチム県立ニース東洋美術館で初めて、現役のアーティストとして個展を開催。今年の春はウィーンの国立ベルヴェデール美術館の「GOLD展」に招聘されました。今後のご予定は。

ヨウコ 2015年は尾形光琳の没後300年祭が開催できる年で、尾形光琳という偉大な存在、日本の芸術の素晴らしさを世界の方々にもっともっと知ってもらうために「GOLD RIMPA展」をまず最初にヨーロッパで行います。琳派を斬新に開化させて現代に蘇らせることが彼への最高の奉納になると信じていますし、私の夢でもありますから。
 光琳に思いを馳せながら、21世紀ならではの「GOLD RIMPA」をモナコのOPERA GALLERYで発表しつつ、ヨーロッパ、アメリカ、日本で行う、その巡回展の準備に精魂を傾けているところです。

 

 

アーティスト画家 ヨウコ・グランサーニュさん

表紙撮影/木村 佳代子 その他/本人提供

<プロフィール>
YOKO Grandsagne
 1957年、大阪生まれ。1979年国立京都教育大学在学中に日本政府給費留学生としてパリのフランス国立芸術大学に留学。83年よりクリスチャン・ディオールのパリ本社に勤務。日本人初のデザイナーとしてオートクチュール・アクセサリーのデザインに携わる。その間、グラン・パレで絵画作品を毎年出品。2005年より南仏ニースに拠点を移し、芸術活動を展開。日本と西洋を融合する芸術活動「RINPA ART」をヨーロッパから発信してきた。今年2012年からはモナコに拠点を移し「GOLD RIMPA展」の開催を準備中。

 

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