キュレーターと作家や作品とは、「愛」で結ばれている。

  • インタビュー:津久井 美智江  撮影:宮田 知明

美術評論家・フリーキュレーター 平松 洋さん

岡山の田舎育ちで、文化的なもの全般に憧れていた少年は、上京後、水を得た魚のように、アート三昧の日々を送った。展覧会や試写会に行くために読者プレゼントにも応募。そんな応募がきっかけで新聞広告のコピーを担当し、企画・編集・プランニングに携わった。念願の学芸員として企業美術館に勤めたのち、フリーになって、国際展や街おこしの美術展のチーフ・キュレーターとして活躍。現在は、主に美術評論家として執筆活動や講演会を行っている平松洋さんにお話をうかがった。

トイレでスカウト!?コピーライターの道へ。

—小さい頃から絵は好きだったのですか。

平松 絵はもちろん、文化的なもの全般に興味がありました。しかし、私が育ったのは岡山の田舎だったので、周辺には図書館はおろか、本屋もなく、たまに家族で岡山市に買い物にいくと、映画館や本屋に連れて行ってもらって嬉々としていました。

 要するに、文化というものに飢えていたんでしょうね。東京に来てから、よく「田舎にあった文化といえば、文化包丁と文化住宅だけだ」と、うそぶいていました。でも、今考えると、少し足を延ばせば備前焼の窯元や、竹久夢二の生家もあったわけです。当時の美術教育は、驚くほど地元の芸術文化に対して冷淡で、授業で備前焼も地元作家についても、一切触れられていませんでした。こうした郷土の芸術文化に、本当の意味で気づかされたのは、地元を離れて大学に入ってからです。

—備前焼や夢二は平松さんにとって「文化」ではなかった?

平松 備前焼は、ある意味、用の美で、普段使いの茶碗や水差しなどに使っていましたから、そうした卑近で工芸的なものと、美術館に展示される西洋絵画や彫刻とを、子ども心にも区別していたのでしょう。いわゆる工芸や商業美術などの応用美術より、純粋な芸術であるハイ・アートのほうが偉いと、勝手に思い込んでいたのです。

 多分、子どもの頃に竹久夢二に興味がなかったのも、大衆美術への偏見があったからかもしれません。夢二は、広告や日用雑貨のデザインも手掛けるグラフィック・アートの草分けですが、所詮、応用美術で、ハイ・アート、ハイ・カルチャーではないと、子ども心に、どこかで思っていたのでしょう。

 そんな偏見に凝り固まった少年が、後に応用美術を躍進させたアーツ・アンド・クラフツ運動の先駆者ウィリアム・モリスや、その友人だったバーン=ジョーンズの本を書いているのだから、人生というのは分かりませんね(笑)。

—では、東京に出てきてハイ・アート三昧の日々が始まったわけですか。

平松 そうですね。東京で開催される美術展はもちろんですが、毎週、銀座や青山、原宿などの画廊を回っていました。銀座や青山の画廊巡りというと優雅に聞こえるかもしれませんが、貧乏学生にとって美術展はお金がかかりますが、画廊は基本的に無料なので、それで、毎週末通うことができたのです。

 この時、通っていた銀座の画廊のオーナーさんたちは、当時の私にとって雲の上の人、憧れの人たちで、片言しか話した記憶がありませんが、後々、キュレーターの仕事をするようになって、企画や作家紹介などで協力していただき、本当に助かりました。

 変な話ですが、若い時はお金がなかったので、新聞や雑誌の読者プレゼントに応募して、展覧会や試写会、クラシック・コンサートなどによく行っていました。応募した中から抽選で選ばれ、朝日新聞の新聞広告のモニターを依頼されたのです。電通、博報堂のディレクターと制作プロダクションの社長が選んだ新聞広告表現について、自由な意見を言ってくれというもので、10代から60代まで10名弱が集められていました。好き勝手な意見を言ったあと、帰りがけに朝日新聞社のトイレに入ったところ、その制作プロダクションの社長が「広告業界の方ですか」と聞いてきました。否定すると、「コピーライターをやりませんか」と、スカウトされたのです。

早稲田大学のエクステンションセンターや区民大学などで人気講座を開催

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50冊以上の著作の中から、平松さんが選んだ3冊をプレゼント

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地方のアート振興に、市民主導の展覧会という一石を投じる。

—仕事の出発点はコピーライターだったのですね。

平松 そうなんです。当時、尖がっていた私は「売文業は嫌いです」と、お断りしたのですが、名刺を渡されました。実はその時、高額なオペラ・チケットを購入し散財していたため、後日その社長に電話をすると、朝日新聞の年間広告企画案のコピー案を考えてほしいということでした。そこで、1日で100案ぐらい考えて提出すると、その制作プロダクションがプレゼンする5案中、3案が私の企画となり、電通、博報堂を含めた5社コンペの結果、私の案が通ってしまったのです。

 しかも、その企画は、同じキャッチコピーで、年間を通じて大手企業十数社を紹介するものだったので、結局、1年間仕事をすることになってしまいました。

 その後、新聞紙面の広告企画や、出版企画、編集やプランニングをフリーランスで受けるようになりました。1993年には、『ヒーローの修辞学』という本を出していますから、「売文業は嫌いです」と粋がっていた頃の、自分に会わす顔がないですね(笑)。

 しかも、もともと憧れていたハイ・アート、ハイ・カルチャーの世界ではなく、広告や出版といった、自分が重きを置かなかった、まさに応用美術に係わる世界にいたわけです。

—いつからハイ・アートのほうに進まれたのですか。

平松 ちょうど、最初の本を出した頃、ある企業美術館がオープンするので、キュレータ―をやってほしいとの打診がありました。企画やマネージメントができて、しかも学芸員免許を持っている人は少なく、私に声がかかったのです。

 自分としてもいつか学芸員になって美術展を企画したいと思ってきましたから、是非やりたかったのですが、当時は海外イベントのプロデュースをやっていて手が離せず、お断りしました。

 結局、私の代わりに大学の先輩がキュレーターとして入ったのですが、2年と続かず、再び依頼がきたのです。企画の引継ぎもあり、どうしても入ってくれないかと頼まれ、企業美術館のキュレーターを引き受けました。

—その後、フリーになって活躍されていますが、大変だったのでは?

平松 ありがたいことに、フリーになった後も、立川国際芸術祭をはじめとした国際展でチーフ・キュレーターを務めさせていただいたり、西荻のNPOなどで地域密着型の展覧会を企画したりしました。

 特に、立川国際芸術祭では、市内を6つの地域に分けて、市民自身の勉強会からはじめ、彼らがキュレーターとして世界6地域から作家を選び、立川に招聘。地域住民の家に滞在してもらい、市民と交流しながら、街の各所で作品を制作することで、街全体を美術館にするという、従来にはなかった展覧会を開催しました。

 今では、地方主催の国際展やビエンナーレ、トリエンナーレは珍しくありません。しかし、地方のアート振興とは名ばかりで、いまだ中央の権威あるキュレーターやギャラリストに企画を丸投げしていることが多く、彼らが連れてくるアーティストや作品を、何の疑問もなく受け入れている場合がほとんどです。市民はサポーターとして、いわば下働きをさせられている地方展が多い中、市民主導での展覧会という一石を投じたわけです。

西荻の街や公園を使った美術展を企画。アートツアーのコーディネーターとして外国人アーティストにインタビュー

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「美少年」や同性愛、月岡芳年など、ブームの先鞭をつけてきた。

—書籍もかなり出されていますが、どれも切り口がユニークで、おもしろいですね。

平松 ありがとうございます。自分で言うのもなんですが、多分、類書のない、オリジナリティの高い書籍を目指してきたからだと思います。

 たとえば、『名画 絶世の美男 同性愛』は、LGBTQの視点からホモセクシャルの絵画をまとめた日本初の書籍で、この出版以降、「美少年」や同性愛をテーマにした美術書や美術雑誌の企画が続きました。

—そういえば最近の月岡芳年ブームも平松さんの書籍からはじまったと聞きました。

平松 そうですね。月岡芳年の書籍は、1990年代半ば以降、まとまったものは出版されていませんでした。私が執筆して2011年に『衝撃の絵師 月岡芳年』を出版すると、翌年の『太陽』をはじめ、ぞくぞくと芳年本が発売され、現在の展覧会ブームとなっていったのです。

 残念ながら、当時は、まだ美術書を出し始めたばかりで、著者扱いされておらず、出版社編となっていますが、この書籍が現在の月岡芳年ブームの先鞭をつけたことは、間違いありません。

—そうしたオリジナリティの高い企画はどこから生まれてくるのでしょう。

平松 少し照れくさいですが、やはり、「愛」だと思います。作品や作家について深く愛していれば、おのずと自分なりの視点が生まれてくるはずです。しかも、作品に対してリスペクトしていれば、軽々なことは言えません。

 最近の美術書でベストセラーになっているものの多くが、残念なことに間違いが多く、愛を感じられません。怖い怖いと言ってみたり、名画が嘘をつくと言ってみたり、センセーショナリズムで売っている書籍の共通点は、作品や作家に対して基本的に「愛」が足りないことです。

 例えば、フェルメールがカメラ・オブスクラという光学装置を使って描いたと主張している人たちがいます。私の知る限り、これを支持している人の多くは美術史を学んだ経歴のない人たちです。フェルメールを愛し、その作品を愛している人が、全く証拠のない光学装置の使用を声高に叫ぶでしょうか。それは愛する画家の技量を疑うことになると、なぜ気づかないのでしょう。本当にその書籍が真っ当なものなのかどうか、こうした「愛」の視点から読み直すことをお勧めします。

—最後に美術展の楽しみ方をお聞きしようと思ったのですが、それも愛ですか。

平松 その通りです。私が思うに、キュレーターと作家や作品とは、「愛」で結ばれているのです。その意味では、企画展とはキュレーターと作家や作品との1回限りのアヴァンチュールです。なぜなら、同じ作家、同じ作品で展覧会を再度、構成することはできないからです。1回限りの大切な逢瀬だからこそ、キュレーターは心血を注ぐわけですし、作家や作品を深く愛し、その展示構成に配慮するのです。ですから、展覧会を鑑賞する際には、個々の作品を鑑賞するとともに、展覧会の企画者の「愛」、つまり、作品展示のセレクトや配置に注意を払ってほしいですね。

 たとえば、ある展覧会で、概ね時代別、国別に展示されていたにもかかわらず、印象派の先駆者であるマネの作品と同じ壁面に、スペイン絵画のベラスケスの作品が飾られていました。なぜ国も時代も違う作品をと思うかもしれません。これは、マネがベラスケスに憧れ、その影響を受けていることを示そうと、わざわざ同じ壁面に飾っていたのです。こうした企画者の思い、つまり作品への深い「愛」が分かると、展覧会は何倍も面白くなると思います。

 美術展を見る際に、単に作品を鑑賞するだけでなく、企画者の「愛」に思いを馳せて鑑賞してみてはいかがでしょう。

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