HOME » トップインタビュー一覧 » トップインタビュー Vol.106 画家・彫刻家 豊島区立熊谷守一美術館 館長 熊谷 榧さん

1 The Face トップインタビュー2016年10月20日号

 
画家・彫刻家
豊島区立熊谷守一美術館 館長
熊谷 榧さんさん
人間はみんな絵を描くものだと思っていた。

画家・彫刻家
豊島区立熊谷守一美術館 館長
熊谷 榧さん

 画壇の仙人と言われた熊谷守一の次女として生まれる。物心つく頃から絵を描くも、戦後の飢えを体験し、大学は自然科学の分野へ進む。大学時代に登った北アルプス穂高岳の残雪に魅了されて絵を描き始め、父と同じ画家の道へ。陶芸や彫刻、石彫にも取り組んでいる画家・彫刻家であり、豊島区立熊谷守一美術館館長の熊谷榧さんにお話をうかがった。

(インタビュー/津久井 美智江)

父のことを「モリ」と呼ぶ。
そうでないと「モリ」のような気がしない。

—今、熊谷守一美術館になっているこちらで生まれ育ったのですか。

熊谷 いいえ、生まれたのは東中野です。3つか4つの時にここに引っ越してきました。
 東中野の借家は、あまり陽が射さないような家で、子どもが次々と病気をするものだから、母が和歌山の実家に3人の子どもを連れて帰って、お金を借りてきたんです。家を建てるからと言って。
 でも、生活のほうにお金がかかってしまい、残ったお金で建てたから小さな家。母の実家は大地主で、お姉さんと「もっと小さい家に住みたいね」と話していたそうなんですが、小さくなりすぎちゃった(笑)。

熊谷守一美術館

アトリエにて。左上の写真が父の守一氏

—お父様のご実家は?

熊谷 モリの実家も—あぁ、「モリ」って父のことを私はそう呼んでいるんですけどね、子供の頃から。だから、「モリ」って言わないと、「モリ」のような気がしないの—で、モリが生まれたのは岐阜県の付知(つけち)という田舎ですが、3つか4つの時に300人も女工さんがいるような製糸工場をやっていた親父さんのところに引き取られたんです。
 そこは一番勢力のあるお妾さんのところで、その人に子どもがなかったから、父が養子になったわけ。当時は汽車なんてないから、背負子にしょわれて、付知から一日がかりで岐阜までやってきたそうです。大きな旅館を改装した家で、モリが与えられたのは2階の100畳敷きの部屋。そこでご飯を食べていたんですって。

—複雑な環境でお育ちになったのですね。

熊谷 親父さんは商売人でもあるけど、岐阜の市長もやっていて、東京にも別荘があって、何人もお妾さんがいるような人。だから、モリと顔を合わせるのは月に一回くらいで、モリはだんだんと自分の殻に閉じこもっていったんでしょうね。学校では授業中、窓の外ばかりを眺めていたので、始終立たされていたそうです。

—そんな環境もあって絵がお好きになったのでしょうか。

熊谷 そうですね。絵は小さい頃から好きだったようですね。でも、親父さんはモリに商売を継がせるつもりで、中学を卒業したら慶應に行かせようとしていたから、絵の道に進むことには大反対でした。
 ところが、慶應に1学期でも行ったら美術学校を受けてもいいと言っちゃった。モリは、親父さんは言ったことは絶対に訂正しない人だということを知っていたから、しめたと慶應に1学期だけ行って、東京美術学校(東京藝術大学の前身)に入ったんです。
 モリは、美術学校の2年の夏休みに歩いて東北旅行をするんですが、その旅行中に親父さんが急死します。親父さんが心配して、行く先々ではがきを出すように言われてたんだけど、出してもすぐ移動するからなかなか連絡がつかない。だからそのままずっと東北を旅していて、親父さんが亡くなって1か月も過ぎて帰ってきた。この東北の旅では、宿にたどり着けず、食べ物もなく、膝を抱えて雨合羽着て寝たこともあったそうです。

 

小学校へ行くまでの絵は面白かったが、小学校に入ってだんだん悪くなった。

—榧さんはどうして絵を描くようになったんですか。

熊谷 私は、生まれた時と言ったら大袈裟だけど、ほんとに3つ4つの時からずっと絵を描いていたんですね。その頃は鉛筆やクレヨンで描いていました。
 モリが二科会にいて、新宿の番衆町に二科会の絵画研究所みたいのがあったんです。そこに1週間に1回教えに行っていたので、そこに来ている人たちが、モリに絵を見てもらうために家によく遊びに来てたんです。みんな絵描きさんばっかりで、だから私は、人間はみんな絵を描くものだと思ってたくらい(笑)。みんなの膝に抱っこされて……。まだ戦争が激しくなる前ですね。
 その中に長谷川利行という放浪の画家がいたんですね。モリのことが好きで、よく来ていたんですが、私、その人にかわいがられてね。お世辞半分だと思うけど、「榧ちゃんの絵が面白い」と言って、自分の絵と交換したことがあるんですよ。
 小さいけどちゃんとキャンバスに描いた裸婦。今でも持ってます。長谷川さん、最後は売れるようになったから、私の絵も間違えて長谷川利行の絵と一緒に持って行かれちゃったかもしれないわね(笑)。
 モリにも、「小学校へ行くまでの絵は面白かった」と言われているんですよ。「小学校に入ってだんだん悪くなった」と言われました(笑)。

—それで絵の道に進むのをやめたんですか(笑)。

熊谷守一美術館 外観

コンクリートの塊のような美術館

熊谷 戦争に負けて、あの頃食糧難で食べる物がなかったでしょう。だから絵だの歌だのという芸術はやるべきではないと思ってたんですよ。
 それで私は、自然科学を目指して、女子大の家政科の中にあった家政理科みたいな変なところへ入ったんです。結局、自然科学もものにならなくて、それでまた子どもの時から好きだった絵を描こうかなと。
 モリは、「飢えているからこそ芸術が必要だ」と言いましたが、今考えてみると、モリの言ったことが正しかったですね。

—独学ですよね。

熊谷 初めは貼り絵だったんです。モリの、線と面で描く絵が好きだったから、それを真似して……。でも、コピーじゃつまらないから、それを自分の絵で表現したいと思って、その頃山やスキーに夢中になっていたので、山の貼り絵を描いていました。
 父のところに来た画廊の主人がそれを見て、大阪の梅田画廊で貼り絵と水彩の個展をやることになりました。1954年のことです。
 和紙を染めてやればよかったんだけど、わら半紙を染めてやっていたから色が変わっちゃって。あまりにも色が変わるので油絵を描き出したんです。

—お父様に習ったりはされたのですか。

熊谷 特に教わらなかったけど、悪口言われながらも見せました。モリは、私の貼り絵は面白いと言ってくれたんですよ。
 でも、油絵になってからは散々言われて、「思い違いしているんじゃないか」とか、くそみそでした。

 

上高地で穂高の残雪を見て、空爆で死なないでよかったと思った。

—山の絵が多いですね。

熊谷 ほとんど山です。これは最後にスキーに行った八甲田山の酸ヶ湯です(画集を見ながら)。雪かきしている様子がおもしろくてスケッチしていたんですけどね。ザイル着けてヘルメットかぶって雪かきしてるの。

熊谷榧さんが石を彫っているところ

70歳を過ぎてから石彫を始めた

—山に行くようになったきっかけは?

熊谷 女子大を卒業する前の年に転校してきた平林昌子さんという人が松本出身で、その人が初めて上高地に連れていってくれたの。6月だから梅雨の最中。上高地で初めて穂高の残雪を見て、こういう世界があるのかと思って、空襲で死なないでよかったと、心から思いました。

—それで山がお好きになったんですか。

熊谷 ええ。木曽福島に親戚がいて、その人とよく山に登りました。その人と上高地から穂高へ初めて入る時に、バスの中で女学校のクラスメイトと偶然会ったんです。その人の伝手で紹介してもらった山好き仲間に、のちに結婚することになる旦那がいたんですよ。

—山の魅力はどういうところですか。

熊谷 魅力ねぇ……、取り憑かれるともうだめ。山よりも山スキーの方がもっと人を引きつけるのね。
 1964年に父の個展がパリであったのね。父は歳だから母と私と通訳ともう一人の5人で行ったんです。せっかくヨーロッパに来たんだからどこか山に行きたいなと思って、みんなが帰った後一人残って山へ行ったんです。
 その時、上の息子が生後10か月で、人に預けていたの。みんなにひんしゅく買ったけど、パリからグルノーブルに汽車で行ってそこでガイドを雇って、レクランとラ・メイジュ山に行ってきました。
 私、あんまり母性愛がないものでね、目の前にいないと忘れちゃうのよ、子どものことも(笑)。
 その後も3年に1回くらいヨーロッパに行っています。ずいぶんヨーロッパの山スキーの絵は描きましたね。

—絵だけでなく陶芸や彫刻も作られていますよね。

熊谷 モリはあれこれやらない人だったけど、私はあれこれやりすぎでしてね。モリが死んだ翌年の1978年から陶芸を始めて、彫刻も始めて、2001年には石の彫刻を始めました。「70過ぎてやることじゃない」とか言われながらね。
 入り口にある「いねむるモリ」は、65年くらい前のスケッチをもとにまず陶器で作って、それから石の彫刻を作りました。モリはいつも居眠りしていたから、そこでずっと居眠っているんです。

—ものを作りたいというエネルギーはどこから出てくるんですか。

熊谷 それは誰だって思うでしょう。

—えー! あんまり思いません、私は。

熊谷 思わない? 私はね、作りたいの。
 今まではずっと山の絵を描いていたでしょう。でも膝がダメになって、山に登らなくなったから、今は人物を描くようになりました。山でも人を描いていますが、食べているところが多いのね。
 どうして食べているところかというと、食べている時ぐらいしか時間がなくて描けないから。それでどれもこれも食べているところなの(笑)。

—ますますお元気で。

熊谷 いやいや、だめよ、死にかかってるの(笑)。

—そう言う人こそ長生きされるんです。

 

画家・彫刻家
豊島区立熊谷守一美術館 館長
熊谷 榧さんさん

撮影/木村 佳代子

<プロフィール>
くまがい かや
1929年、熊谷守一の次女として東京に生まれる。51年、日本女子大学卒業後、絵画と登山を始め、「山・雪・人」のテーマで油絵の個展を200回以上開催。画文集や陶芸、彫刻を手がけ、2001年、石彫を始める。1985年、父の旧居に「熊谷守一美術館」を作り、2007年、豊島区に自身が持っていた守一の作品を寄贈、豊島区立熊谷守一美術館の初代館長となる。

 

  
 

 

 

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