其の116 白い紫陽花

  • 記事:坂井 音重

 2019年の師走、「あれっ!」と思う事があった。庭に紫陽花(あじさい)が咲いたのである。庭師が晩秋に手入れをした後だ。紫陽花は6月から7月の中旬の梅雨の頃に咲く。青から紫へ、そして淡い桃色にと次第次第に色が変わり、目を楽しませてくれる。この冬に咲いたのは白。緑の葉と白の花。思い起こしたのはロシア・サンクトペテルブルク「マリインスキー歌劇場」だ。

 白と緑の調和のとれた歌劇場は、とても美しい。私はここで日露交流記念事業「ロシアにおける日本文化フェスィバル2003」「サンクトペテルブルク建都300周年記念」として能『隅田川・彩色』を舞った。今でも当時の観客の反応が忘れられない。演能中は水を打ったような静けさが舞台に漂った。演目が終わり出演者全員が舞台から退場すると、ロシアの観客が日本語で「アリガトオ!アリガトオ!」と大きな声で叫び、堰を切ったように万雷の拍手が巻き起こった。鋭い感性。芸術の国の審美眼の高さに感服した。

 この歌劇場の「ワレリー・ゲルギエフ総監督」とは数十年の親交を温めている。彼は私の事を「自分の良き友人だ」と人に紹介するのが常だ。親分の尊称「マエストロ」と呼ばれるゲルギエフ氏が私の能を観たいということで、直後にコンサートが控えているにもかかわらず時間を割いて「国立能楽堂」へ来場された。ご覧になった演目は『恋重荷(こいのおもに)』。賤しい宮中の老庭師が高貴な女御を一目見て片思いの恋に陥る。前半は老人の拭いがたい煩悩。そして苦しみの末に死に至る。後半、老人の悪霊が女御にとり憑く物語だ。

 演能後、能面を外し「鏡の間」で出演の方々にご挨拶の最中、マエストロが「楽屋口」までお越しになられていると伝令が入った。後にコンサートがあるというのに……。急いでお会いしたのだが、20分近くも話し込んだ。彼曰く「能」は「極めて凝縮された動き」で「心の深淵」を表現すると熱く語られた……。私は驚き、言葉が出ず、思わず彼の両手を握った。いつもの厳しく射るような鋭い彼の目が柔らかな笑みを浮かべ、『私は同じ玄人ですよ』と云っているようだった。

 今年の12月1日、マリインスキー管弦楽団による名作「スペードの女王」を、翌日は「マゼッパ」を鑑賞した。12月1日の夜、日本にもよく訪れたサンクトペテルブルクの名指揮者「マリス・ヤンソンス氏」が急逝された。長い間ヤンソン氏と親しいゲルギエフ総監督は、沈痛な面持ちで会場の人々と一緒に黙祷を捧げた。そして、指揮棒を手に持ち演奏が始まった。痛々しく、私は胸に込み上げてくるものを堪えるのに必死だった。

 「マゼッパ」はプーシキンの叙情詩を「チャイコフスキー」が作曲した大作だ。「若い女性と老人の恋」、そして「煩悩と死」がテーマ。能『恋重荷』と内面が非常に似ている。

 演奏後、楽屋へ一番最初に表敬し、弔意と「マゼッパ」の感銘を申し上げた。

 来日したら必ず一度は会おう、とゲルギエフ総監督は手を差し出し、確りと固い握手を交わした。

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