すべての根源にあったのは感謝だった。

  • インタビュー:津久井 美智江  撮影:宮田 知明

ピアニスト 西川 悟平さん

 1989年、15歳でピアノを始める。1999年、単独でニューヨークへ。同年、音楽会の殿堂リンカーンセンターでデビューを果たすも、神経系運動障害であるジストニアを両手に発症し、一時演奏機能を完全に失う。10年以上にわたる懸命なリハビリを経て、現在左手2本、右手5本、計7本指で独自の奏法を編み出し、世界中でコンサート活動を行っている。一音一音に込められた深い音色で、世界中の聴衆を魅了しているピアニスト、西川悟平さんにお話をうかがった。

和菓子屋の店員から、ピアニストへの道へ踏み出す。

—1999年、24歳でニューヨークのリンカーンセンター・アリスタホールでデビューされていますが、ピアノを始めたのは遅かったそうですね。

西川 中学3年の1月からです。動機は不純で、僕、ブラスバンド部でチューバをやっていたんですが、顧問の先生がすごくかわいくて、その先生が音楽大学出身だったので、僕も音大行って先生の後輩になりたい!でも、チューバで受験するにしてもピアノが弾けなければいけない。それで、その先生にピアノを習うことにしたんです。

 最初のレッスンの時、先生がショパンのノクターンを弾いてくれたんです。すごい衝撃を受けて、「僕、ピアノ科に行く!」と言っていました。先生の反応は、「悟平くん、ピアノ科っていうのはな、3、4歳から英才教育を受けて、それでも通るか通れへんかの狭き門やで。あんた、今日ピアノ始めたばっかりやろ。そんなの絶対無理!」でした。

 とにかく思い込みの激しさと意気込みだけで音大を目指し、ピアノの猛練習はもちろんですが、受験に必要な聴音や音楽理論なども必死に勉強して、何とか音大の短期大学に入ることができました。

—初めからピアニストを目指していたのですか。

西川 僕が目指したのは、「先生、これ弾いて!」と言われたら、パッと弾いてくれるピアノの先生だったんです。でも、大学卒業と時を同じくしてバブルが崩壊。ピアノどころではなくなり、辿りついたのは和菓子屋の店員でした。

 2、3年たった頃、ピアノの調律の先生が「ニューヨークのジュリアード音楽院で教えていたピアニスト二人が日本ツアーで大阪に来るけど、前座で10分ぐらい弾かないか」と声をかけてくれたんです。ちょうど和菓子屋が繁忙期だったので、僕は時間がないからと断ったんです。すると、「どこの世界に音楽大学を卒業してまんじゅう売るのが忙しくてピアニストの仕事を断るアホがおんねん。ないのは時間じゃなくて自信やろ」と言われた。それでクソッと思って、ショパンのバラード1番を弾いたんです。

 ものすごく緊張して、前日に嘔吐して病院行ったくらいで、当日は足がガクガク、指も震えて、5回くらい演奏が止まりかけたんですよ。演奏を終えて楽屋に戻り、悔しくて泣いていた……。するとピアニストのデイヴィッド・ブラッドショー先生が入ってきて、「なかなかユニークなショパンだった。君は情熱があふれんばかりにあって、確かに思うように弾けなかったかもしれない。でも、もっと鍵盤の操作の仕方を覚えるとすばらしいピアニストになれると思うよ。仕事は何をしているの?」と言われたんです。和菓子屋の店員だと答えると、「それはすばらしいけど、きみがやりたいことなの?」。そして、もう一度僕の目を見て、「What do you really want to do for your future?」と。

 僕はそれまで、口に出すことすら恥ずかしいと思っていたんですけど、意を決して「ピアノがもっとうまくなりたい。英語も上手に話せるようになりたい。そして世界中を演奏活動しながら、世界中に音楽を通して友だちを作りたい」と言ったんです。

 そうしたら、「何をぐずぐずしているんだ。君が本気で考えているなら、今すぐニューヨークに来なさい」と言われ、1999年5月9日に一人で3か月渡米することにしたんです。

2016年、カーネギーホール大ホールで演奏

障害が故に、テクニックに限界があるからこそ、
技術だけでなく様々な音色を研究し、自分の声を見つけた。

—ニューヨークではどんな暮らしだったのですか。

西川 ブラッドショー先生の家に住み込みで、レッスン漬けの日々です。毎日朝の4時頃まで練習していました。そして2か月が経った頃、「悟平、ニューヨークのパブリックな場所で演奏する経験をしてから日本に帰りなさい」と言われた。「どこ?」と聞くと、「リンカーンセンターだ」と。ホールを見に行ったら、ブロードウェイのど真ん中、絢爛豪華なオペラハウスもある。「こんなところで弾けない!」と言うと、「君よりうまいピアニストなんかニューヨークにごまんといるし、ここで弾きたいピアニストは捨てるほどいる。悟平、時にはね、100%準備ができていなかったとしても、目の前にチャンスが来たら、掴んでみなよ。同じチャンスは、2度と来ないかもしれないじゃないか」と言われたんです。

—舞台には立たれたのですよね。

西川 はい。でも、いろいろ弾いた中でショパンだけ緊張して1ページ飛ばしてしまった。これで終わったと思ったので開き直って楽しんで弾いたら、お客さんがワーッと沸いて、先生たちからも「おめでとう!」って言われたんです。ごまかし方がすばらしかったと(笑)。  それで実際にスポンサーがついたんですよ。そうなると、シチュエーションが急にシビアになるんですね。世界中からサラブレッドが集まるニューヨークで、僕みたいな金メッキはいくら頑張ってもぼろが出る。やがて、どんどん追い詰められていって、その結果、指が硬直するジストニアという病気になってしまい、医師たちからは二度とピアノは弾けないと、宣告されました。

—つまりピアニストの道が絶たれたと……。

西川 そうです。そんな時、コネチカットで幼稚園を経営している山本薫さんという先生が、僕の指の噂を聞いて、自分の幼稚園でピアノ教室を開かないかと言ってくださったんです。以前、僕の演奏を見に来てくれていて、その心を子供たちに伝えてほしいと。病気によって演奏する機会は失ってしまいましたが、教師になる夢は叶いました。そこで15年ほど教えましたが、山本先生にはグリーンカードが取れるまでスポンサードしていただきました。

 ニューヨークというのは不思議な場所で、みんな難しいと言いますが、僕は最初から最後までスポンサーが途切れませんでした。それは、僕に何か特別なものがあったからではなく、ブラッドショー先生が“Find your own voice.”とよく言っていましたが、たぶん“自分の声”を見つけることができたからではないかと思います。

 僕のテクニックには、10本指で演奏するピアニストに比べると、限界があります。だからこそ、一音一音に愛を込めて弾く、自分の声に辿りついたんだと思います。

セントルイスのパウエル・ホールで演奏

10本指ではあり得なかったことが、皮肉なことに7本指になって叶った。

—子供たちにはどうやってピアノを教えたのですか。

西川 ジストニアの症状が強く、練習すればする程、両手の指が意思に反して内側に曲がってしまい、どれだけ練習しても童謡すら弾けなかったんですが、先ほどお話した幼稚園で、ある日、めちゃくちゃな指遣いでしたが『きらきら星』を弾くと、子供たちが歌いながら踊り出したんです。僕のひん曲がった指や演奏方法なんかお構いなしに。

 その時に、伝統的な演奏運指に執着せず、独自の指遣いで演奏しても良いんだ!と、子供たちに気づかせてもらいました。これを機に、リハビリを続け、演奏できる曲を増やして行きました。

—ピアニストに戻るきっかけは何だったのですか。

西川 右手3本、左手2本の指で独自の演奏方法を研究するうちに、童謡だけでなくクラシックも弾けるようになりたいと思うようになりました。

 でも、10本指の頃のようにはいきません。それなら一音一音の音色で勝負しようと。さっき話した“自分の声”ですね。そして、ピアノ教師をしながら、プロデューサー的な仕事やピアニストとしての活動も少しずつ始めました。

 十数年経った頃でしょうか、「7本指のピアニスト」という本を書いてみないかという話をいただきました。本が出版されると、NHKのEテレがドキュメンタリーを制作してくれ、メディアに出る機会が増えて、演奏活動も多くなっていきました。クラシックの本場イタリアの国際音楽フェスティバルに呼んでもらって、800年前に建てられた大聖堂で、ヨーロッパの人に囲まれてショパンを弾く機会にも恵まれました。

セントルイスのパウエル・ホールで演奏

 でも、ピアノ教師とピアニストの二足の草鞋は、僕はいいんですが、子供たちに迷惑をかけていることに気づいたんです。40人ぐらい生徒を、泣く泣く友人のピアニストに譲りました。本当に悲しかったです。

—活動の拠点は今はどちらなのですか。

西川 1999年から拠点はニューヨークですが、去年の8月に一時的に日本に帰ってきました。日本にいる間は、基本的に毎週土曜日か日曜日、もしくは両日は銀座のスタジオで演奏して、月曜から金曜は地方公演を12月までは毎月30公演くらいやっていました。

 今年1月に銀座のスタジオでコンサートをした時、アメリカから申込みがあったんです。18歳くらいの女の子で、親と一緒に来たんですが、僕がコネチカットの幼稚園で初めて5本指で『きらきら星』を弾いた時に歌ってくれた子でした! 初めに話した、「ピアノ科は行くのは絶対無理!」と言ったピアノの先生も、令和元年の最初のコンサートに来てくれました。

 新型コロナウイルスの影響で、今後の公演はキャンセルになりましたが、しばらくは日本で頑張ろうと思っています。

 なぜなら僕は、伝えたいことがあるからです。最悪と思われる事態でも、ちょっとした考え方と行動の違いによって、最高の出来事に変わることがある—。ピアノ科に行くのは絶対無理、ジストニアでは二度とピアノは弾けない……八方塞がりだったけれど、とにかく自分を信じて頑張った結果、“絶対無理”が、実際に叶ったんです! 

2019年、兵庫県香美町立香住小学校でコンサート

 僕にとってピアノを遅くから始めたというコンプレックスは、人の何倍も練習するというエネルギーになった。指が7本しか使えなくなった代わりに、一音一音に対する愛を深めることができた。そして、10本指では絶対あり得なかったことが、皮肉なことに7本指になって叶った。

 この病気を恨むのではなく、7本も動くんだと感謝した瞬間に、この敵だったはずの病気がまるで僕の守り神みたいになって、僕をいろんな国に導いてくれたり、いろんな演奏の表現に導いてくれる翼になりました。その根源にあったのは感謝でした。

(インタビュー/津久井 美智江)

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