音楽で人とつながっていきたい。

  • インタビュー:津久井 美智江  撮影:宮田 知明

歌手 多田 周子さん

寺の孫という環境で生まれ、常にお経が音楽のように流れていた。3歳からは声楽家の母親から音楽の全てを教わった。ピアニストを目指してレッスンを続けるも、その厳しさから歌に転向。童謡や抒情歌、自ら作詞作曲したオリジナル曲で、日本人の心を歌い継いでいる歌手の多田周子さんにお話をうかがった。

小さい時からたくさん聴き、歌ってきた童謡が私の歌の基本です。

—10月4日にニューシングル「風がはじまる場所/雨上がりの午後」がリリースされました。小さい時から歌手になりたかったのですか。

多田 母が声楽家でしたので、家の中は常に音楽が流れているような環境で、漠然と私も将来は歌を歌うのだろうと思っていました。3歳くらいからピアノ、歌、聴音など、音楽に関する全てを母が教えてくれました。

 もっとも母は、最初はピアニストにさせたかったようで、中学からは神戸や京都の先生に習い、月1回は東京のピアノの先生のところにレッスンに通っていました。でもすごく怖い先生で、うまく弾けないとピアノの蓋がパタンと落ちてくるんですね。

 音楽はもっと楽しくて、自由であればいいなと思って、ピアノはやめて歌にしました。

—その頃はどんな歌を歌っていたのですか。

多田 童謡です。童謡博士と呼んでいただいてもいいくらい、たくさん知っています。

 童謡って、親子のつながりだったり、ふるさとだったり、身近な暮らしを、北原白秋や三木露風、まどみちおといった一流の文学者や詩人が、子供のために、難しい言葉を削ぎ落として、削ぎ落として作った歌なので芸術性が高いんですね。

 小さい頃からたくさんの童謡を聴かせてもらい、歌ってもらい、自分でも歌ってきましたので、童謡という素養が私の歌の基本になっていると思います。ただ、母はバリバリのオペラの歌手だったので、童謡を歌ってもオペラ調になっちゃう(笑)。

 私も京都市立芸術大学に行って、オーストリアに留学して、オペラを習い、クラシックの発声を身につけましたが、童謡や日本語の歌を歌う時には、違う発声法で歌うほうがその良さが伝わる場合があるのではないか、と感じていました。

 最近ようやく「周子さんの歌う童謡がいい」と言っていただけるようになりましたけど、童謡を、高いキーでオペラっぽく歌うことに、ずっとわだかまりがあったんですね。

 それで、日本に帰ってきてオペラをきっぱりやめて、自分の持っているそのまんまの声で日本語を素直に歌うようになりました。

—「風がはじまる場所/雨上がりの午後」はご自身で作詞作曲をされていますね。

多田 小さい頃から、母がやっていた音楽教室の発表会で、自分で作詞作曲した曲を弾き語りで発表していました。でも、クラシックを習うようになって、自分で作るということから遠ざかっていたんですが、自分が本当に思っていること、感じることを表現して、聴く人に問うてみたいと思うようになり、ここ4、5年は自分で作った歌も歌っています。

 もちろん他の方に作っていただいた歌も歌いたいですよ。趣味ではないので難しいですが、自分に合う歌、共感してもらえる歌を歌っていきたいです。

銀座ヤマハホールでのコンサート

銀座ヤマハホールでのコンサート

ステージでのトークは3枚目なのだとか(C)otokaze

ステージでのトークは3枚目なのだとか(C)otokaze

言葉の意味はわかったとしても、情感まで理解するのは難しいです。

—音大を卒業しても、音楽の道で食べていくのは厳しいのでは?

多田 そうなんです! 小さい時からものすごく努力して、ストイックに音楽のことを勉強して、ようやく卒業して、大変な思いをして留学しても仕事がないんですよ。こんなわりの合わないことって思いますでしょう。

—それで、テレビのレポーターの活動を始めたのですか。

多田 大学3年の時に、ホテルのロビーで弾き語りのバイトをしていたんですね。そこでKBS京都という放送局のプロデューサーから「レポーターをしませんか」と声をかけていただいて、若かったので、「やってみたいです」と。レッスンに通ってオーディションを受けていましたが、大学を出てもすぐに歌手になるのも難しい。それで、テレビ局の方に勧められるままに、ニュース番組のオーディションを受けることにしたんです。ただ声が通るというだけで採用されたようなものなので、レポーターの仕事もニュース番組の仕事も、自分にはしっくりきませんでした。

 やっぱり歌で生きていきたかったので、1年半お給料をもらってお金を貯めて、オーストリアに留学することにしました。

—オーストリアのどちらに?

多田 ザルツブルクのオーストリア国立モーツアルテウムという音楽大学です。私のクラスは17人でスイス、ドイツ、フランス、イタリア、スペイン、韓国、中国……世界中から歌手を目指す人がやってきていました。

 神戸のゲーテ語学学院でドイツ語を勉強して行ったのですが、全然通じないんですね。結局通訳の方をお願いしてレッスンを受けたので、先生の言ってらっしゃることはわかるんです。でも、「あなた、自分の思っていることを、私たちに上手に伝えられませんね、ドイツ語で」と。日本語でも心の機微というか、ニュアンスをうまく伝えるのは難しいのに、ましてやドイツ語でしょう。「声も綺麗だし、音程も合っている。間違いなく歌っているけれど、ハートに届かない」と先生がおっしゃるんですよ。

 それはそうですよね。さめざめと降る雨とか、しんしんと降る雪とか、雨の降り方、雪の降り方ひとつとっても、それぞれに情景があって、そういう言葉が日本の歌に散りばめられているように、ドイツ語の歌にもドイツ人にしかわからない言葉が入っている。もちろん辞書を引けば言葉の意味はわかるんですよ。でも、情景まではわからない。

—日本語だって、地方によって表現が違いますし、その土地土地の言葉がある。言葉の意味は理解できたとしても、その情感まではわからないですものね。

多田 おっしゃる通りです。意味がわかったとしても、情感まで理解するのは難しいです。日本人ならではの美意識、美的感覚があるように、ドイツ人にもドイツ人ならではの美意識、美的感覚があると痛感しました。

相棒のみぃちゃんと

相棒のみぃちゃんと

ドイツ語の課題曲ではなく、「赤とんぼ」を歌ってディプロマをとりました。

—無事に卒業することはできたのですか。

多田 卒業試験は公開なんですね。全生徒が聴いていて、先生に「イエス」と言ってもらって、みんなから拍手をもらって、ディプロマを受けとって卒業するんですね。でも、私だけは「ノー!」。「間違えていないけれど、声が深くない。ウムラウトが発音できていない」と、みんなの前で何度も歌わされて、ついに先生がピアノの蓋をパタっと閉めて、「周子ゲットアウト。残念だけどあなたは卒業はできないわ。なぜかというと、あなたは日本人の発音でドイツ語の歌を歌っている」と。「これでは無理だな」とあきらめかけていたんです。

 そうしたら隣でピアノを弾いている先生が、「周子、あなたの故郷の歌でウムラウト、深い『う』が出てくる歌を歌って聴かせてくれないか」と言ってくださった。「う」といえば「赤とんぼ」。私は♪ゆうや~けこやけ~の♪と歌ったんです。そうしたら、聴いていた人全員がわーと拍手してくれて、先生も「イエース! あなた、その深いオリジナルの声で歌いましょう」と。

 私、ドイツ語の課題曲ではなく、「赤とんぼ」を歌ってディプロマをいただいたんです(笑)。

—それで、日本語の歌を歌うことになったと。

多田 私は寺の孫でしたので、生まれた時からお経が音楽のように流れている環境で育ったんですね。クラシックよりも長唄とか日本の歌のほうが私のアイデンティティに合っていると思ったり、これも神様仏様の巡り合わせかもしれませんけど、私が生まれた兵庫県たつの市は「赤とんぼ」を作詞した三木露風の故郷なんですよ。それもあって童謡を歌いましょうとなりました。

—海外でもご活躍ですが、そこでも日本語で童謡を歌われるのですか。

多田 基本的には日本語でそのまま歌います。なぜかというと、現地の言葉に変えると、日本語が持つ響きや美しさが伝わらないのではないかと思うから。先ほどの話ではないですが、本当の情感を伝えるには、肉体と声が持っている響きで届けるほうが、ずっと伝わるんじゃないかと思うんです。

—人に伝えるって難しいですね。

多田 そうですね。人に伝えるツールはいろいろあると思いますが、私は歌で人に伝えたいというか、つながりたい。だから、難しい言葉を使わない、奇を衒わないということを大事にしているんです。それは童謡から教えてもらったことだと思います。

—歌いたい歌が歌えるようになってきて、これからの目標は?

多田 ライフワークの童謡はずっと歌い続けたい。そして、自分が本当に納得した歌を80歳くらいまで歌い続けたいです。

 今、赤坂混成合唱団と自由が丘田園調布合唱団、それから故郷のたつの市少年少女合唱団と一緒に歌っているのですが、音楽家として歌い手として作り手として、歌でつながれることをやっていきたいですね。

 そして、じわじわと全国区になっていって、「多田周子といえばこの曲だね」という1曲に出会いたい。『周子』と言う名前の通り、歌うことで多くの皆さまとつながり、周く知られる歌手になりたいと思っています。

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