自由でおおらかなところが東京手描友禅の魅力です。

  • インタビュー:津久井 美智江  撮影:宮田 知明

東京手描友禅伝統工芸士 日本伝統工芸士会副会長 岩間 奨さん

中学2年の時に父と同じ糊置の職人になろうと決め、都立高校の色染化学科へ。兄の修行先である友禅工房を見学したら、その華やかさに惹かれてこっちだ!と。染色工芸家の村井順三氏に弟子入りし、住み込みで友禅染の全行程を学んだ。独立後はその技術の高さと人柄の良さで、京都からも依頼が来る東京手描友禅伝統工芸士の岩間奨さんにお話をうかがった。

東京手描友禅は、12もの工程を経て完成する。

—東京手描友禅は、どのようにして発展してきたのでしょうか。

岩間 友禅染は、江戸時代の享保年間(1684〜87)に京都の絵師が広めたと伝えられています。

 江戸で友禅染が盛んになるのは文化・文政期(1804〜27)の頃で、大名が参勤交代の時にお抱えの染師や絵師を京から江戸に連れて来たことで、その技法が伝わったんですね。神田から神田川沿いに高田馬場、中野へと広がっていったのは、友禅染には水が不可欠だったからです。

—東京手描友禅は、京友禅、加賀友禅と並び日本三大友禅と言われますが、それぞれの特徴は?

岩間 京友禅は、刺繍や金箔を用いた華麗な絵模様、加賀友禅は、加賀五彩と呼ばれる基本の5色(臙脂〈えんじ〉、藍、黄土、草、古代)のみで作られる、東京友禅は、侘び寂びや江戸の粋が特徴といわれていましたが、今は各地と交流もありますし、情報もありますのでほとんど変わりません。

 ただ、東京は後から友禅の技法が伝わった土地なので、自由といいますか、模様もモダンでバラエティに富んでいて、完成度が高いと思います。私自身、渋めの色よりも、きれいな古典的な色を使うことが多く、それを“東京の色合い”として、気にいってくださる方もいらっしゃいます。

—東京手描友禅は、どのように作られるのですか。

岩間 構想から仕上げまで大きく分けて12の工程があります。

 まずは、「下絵」。青花液を筆に含ませて、仮縫いの白生地や付下げなどの着尺の生地に構想した図案通りの模様を線描きします。青花液の原料は露草の花の汁で、水で洗うときれいに消えるんです。

 次は、「糸目糊置(いとめのりおき)」。染料が模様の他の部分ににじむのを防ぐために、輪郭や線に沿って筒紙に入れた糊を絞り出しながら生地の表面に置いていきます。染め上がった時に糊の線が糸を引いたように白く残るので糸目と呼ばれるんですね。糸目糊を生地に密着させる「地入れ」が済んだら、糸目糊置の内側の模様に小さな刷毛や筆で染料液をさす「手描友禅さし」。染料の持つ性質を考慮しながら色を合わせたり、全体の色の調和を整えたりします。

 そして、大刷毛に染料を含ませて、染料液を均一に生地全体に染め付ける「引染」。蒸しの作業や「水元」と呼ばれる洗い流す作業、さらに「上湯のし」で型を整えたら、いよいよ「仕上げ」です。染め上がった模様の部分を完成品にするため、筆や刷毛などで補正したり、仕上がったものを一層引き立たせるために、部分的に金や銀の箔や金粉を接着加工させて完成です。

—お一人で全ての工程を行うのですか。

岩間 私の場合はほとんど工程を一人で行なっています。師匠がそういう人だったのでね。  でも、私がこの世界に入った高度経済成長期は分業制の工房が多く、野球チームができるほどお弟子さんを抱えている工房もあったんですよ。今は50人くらいになってしまいましたが、当時は東京都工芸染色協同組合に登録している作家だけでも500人ほどいましたから、登録していない人も合わせると2000人以上の作り手さんがいた。高田馬場で石を投げれば模様師に当たると言われるほどでしたよ(笑)。

東京プリンスホテルで行われた令和5年春の叙勲受賞伝達式の様子

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孫の七五三の着物。柄のリクエストは「虹」。名前が音愛(おとあ)なので、虹を五線譜、花を音符に見立ててアレンジ

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糊置職人の父の跡を継ぐ予定が、彩色の華やかさに惹かれて転向。

—この仕事に就こうと思われたのは?

岩間 私の父親が友禅染の工程の一つである糊置の職人だったので、中学2年の時にこの仕事につくことを決めていて、今は総合高校になってしまいましたが、都立八王子工業高等学校の色染化学科に進みました。工業高校といっても紡織科などもあったので女子がいっぱいいて、新人の体育の先生が学校に入ったらあんまり女子が多いので、校門を出て学校名を確認したという話が残っています(笑)。

 八王子はもともと織物のまちで、八王子工業高校の前身は染色の専門学校だったんですね。西八王子駅から歩いて学校に向かうのですが、織物工場のカチャカチャという織機の音を聞きながら学校に通ったものです。当時は豊島区に住んでいたので、八王子まで2時間近くかかったんですよ。

—お父様は糊置の職人だったのですよね。なぜ全工程をやるようになったのですか。

岩間 5歳違いの兄も彩色の修行をしていて、その工房を見学させてもらったんです。父は糊と糠でしたけど、そこでは色は使っている、金は使っていると華やかで、こっちだと。

 当時は需要も多く、弟子を取る工房もあったので、父には「親父の元だと甘えてしまうから外で修行したい」と言って、工房を探すことにしました。ところが「弟子に入ると運転免許が取れないから取ってから入れ」と兄に助言され、教習所に通っていたら2ヶ月もかかってしまって、どこも取ってくれない。なんとか染色工芸家の村井順三師匠に取ってもらったんです。

 師匠は日本画の表現が得意であつらえものが多かったので、百反単位の仕事を分業制でこなす工房とは違い、先ほども言ったように全工程を自分で手掛けていたんですね。

 私は7年で独立したいと思っていたので、高田馬場の工房は自宅から通える距離だったのですが、住み込みで内弟子に入りました。内弟子的な修行の仕方は、私の代で最後くらいではないでしょうか。弟子も少なかったので、丁寧にいろいろ教えてくれて、今思えばベストな選択でした。

—内弟子生活はどんな感じなのですか。

岩間 7時起床で掃除とかをして、8時半から9時には仕事を始めて、定時は10時でした。もちろん食事をしたり、銭湯に行ったりする時間はあるんですけど、一応10時まで。日曜は休みでしたが、祭日は休みではなかったです。

 師匠は古い時代の人間だったので、二十歳を過ぎても門限は23時と決められていましたし、そういう環境ですから、6年目くらいからは1日も早く独立したいという思いが強くなりましてね。7年経って「職人待遇にするから残ってくれないか」と言われたのですが、「いや独立します」と。

—独立して順調に仕事はあったのですか。

岩間 当時はまだ需要も多かったので、25歳にしては稼いでいました。師匠によっては独立した弟子に自分の仕事は渡さない人が多かったのですが、うちの師匠は「いいよ」と言ってくれて、修行時代の基盤もあって、人も寄ってきてくれましたのでね。

 で、けっこう遊んだ。スナックにボトルを置くのが夢だったんです(笑)。

親戚の結婚式で岩間氏が制作した着物を身内が着装

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弟子入り希望者は増えたが、現実は弟子を取れないのが悩み。

—着物を着る人が少なくなりましたが、後継者は育っているのでしょうか。

岩間 コロナ禍の話ですが、私が理事長を務めている東京都工芸染色協同組合のウェブサイトに、「弟子入りしたい」という問い合わせが相当入ってきたんですよ。でも受け入れ先がない。

 弟子を取るということは、給料を払うということですからね。私の頃は給料とは言わずにお小遣いと言っていましたが、それすら払えない。それに労働基準法がありますから、私の頃のようにはいきません。

—弟子入りしたいという人がたくさんいるのに、悩ましいですね。

岩間 それがこれからの課題で、後継者育成のための助成金等もあるのですが、一人の師匠が育てるのではなくて、みんなで育てようということで、マニュアル化するというか、カリキュラムを作る準備をしているところです。友禅染は同じような工程なんですけど、材料ひとつとっても工房によって違ったりしますのでね。

 今は、弟子を取るというより教室にして、教室を出て自分なりに勉強して、作品を作って売っている人を巻き込んでいくようにしています。実は、コロナ禍で組合員が減るのではないかと思っていたら、増えたんですよ。門戸を広げたこともあるのですが、そういった女性陣がけっこう入ってきてくれて。

 ただ、自分たちが当たり前と思っている基本的なことを知らないで入ってきている人もけっこういるので、基本的なところから伝えていこうとしているところです。着物のしきたりとかもだんだん崩していこうとはしているのですが、先人たちが残してくれたものは一応頭に入れて、その上で変えていかなければならないと思いますのでね。

—岩間さん自身は弟子はいないのですか。

岩間 仕事はけっこうあるので、弟子を取れないことはないのですが、いろんな役職をしていて家にいないものだから、なかなか難しい。ですので、短期的に通ってきてもらって教えることはしています。

 今、ここにいろんな道具がありますが、ほとんど親や師匠、仕事を辞めた人から譲り受けたものばかり。多くの人の思いが詰まったものが集まっているんです。これらを次の代に渡したいと思っているんですけどね。

—渡す予定の人はいらっしゃるのですか。

岩間 描き手では、狙っている藝大出でセンスのいい描き手がいます。

 この仕事は人の話を聞く耳を持たないとできません。自我が強すぎるのが一番のダメ。例えば、あつらえだとします。自分が完璧だと思ったとしても、着るお客さんが「これは赤すぎて嫌だから直して」と言われたら直さざるをえない仕事なんですね。

 ましてや問屋や呉服屋の仕事は着る人に会わないで受ける仕事なので、着る人の思いを汲み取らなければいけません。だから、どうしても人の話をきちんと聞ける、そういう人間でないとつとまらない。

 高田馬場の修行時代は、我々は模様師と言われていたんですよ。絵ではなく、あくまでも模様。絵描きや芸術家ではないんです。

—とても模様とは思えませんが。

岩間 実は私は子供の頃から絵を書くのは得意ではなくて、字も下手。羽裏に字を書かなきゃならないことがあるんですけど、だからそれも模様です(笑)。

 それでも、こうして50年以上仕事を続けて来られたということは、幸せなことだと思っています。

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